巻頭
エステン
日本南極 地域観測隊第10次越冬隊は、昭和基地においてS.10トピックス社を設置し、日刊新聞「S.10トピックス」 (B6版ガリ版印刷)を1号から365号まで発刊した。
この新聞の中に、隊長(楠 宏)が、南極に関する事の初めを『南極ことはじめ』と題して執筆された記事が、20回のシリーズで 掲載されている。
ここに、その『南極ことはじめ』(平成年12月7日、執筆者による加筆修正)を紹介する。
(復刻版作成:鈴木剛彦)
南極ことはじめ
1969年 3月3日 No. 11 (1)南極圏突破
4月26日 No. 65 (2)南極での初飛行
5月22日 No. 91 (3)大陸へ初上陸
5月26日 No. 95 (4)南極圏で初越冬
7月21日 No.151 (5)大陸での初越冬
(6)南極点到達
12月26日 No.309 (7)極点上空への初飛行
(8)南極点着陸
1970年 1月20日 No.334 (9)南極での出生
(10)南極圏を越えた汽船
2月13日 No.358 (11)自動車
(12)女性の初上陸
(13)無線通信
(14)ロケット(気象)
〃 (増刊) (15)女性の越冬
(16)気球
(17)南磁極到達
〃 (増刊) (18)スチュワーデスの南極入り
(19)南極点へパラシュート降下
(20)大陸への埋葬
南極ことはじめ(1) 南極圏突破 楠 宏 南極圏(南緯66.5度)を初めて突破したのは、英国人“ジェイムズ・クック”で、1773年1月17日、東経39度35分(昭和基地沖合)の地点を「レゾリューション号」(決断号)462トンによる、というのが定説。 (Ko) |
南極ことはじめ(2) 南極での初飛行 楠 宏 南極で初飛行をしたのは、オーストラリア人サー・ヒューバート・ウィルキンズ(1888〜1958)で、1928年11月16日南極半島に近いデセプション島から、ロッキードヴェガ単発機で飛んだ。 パイロットはノルウェー人ベン・アイエルソンで、両人は前の年に北極で飛んでいる。アイエルソンは、1929年11月9日北極で救難飛行中行方不明となった。 ウィルキンズの受勲は、1928年4月15〜16日のアラスカのポイントバローからスピッツベルゲンまでの 2,100マイルの北極海飛行に成功したことによる。この時のパイロットもアイエルソンであった。 なお、ウィルキンズは、潜水艦ノーチラスで北氷洋の氷の下を初めて航行した(1931年)。 (O) |
南極ことはじめ(3) 大陸へ初上陸 楠 宏 大陸への初上陸は、1895年1月24日北端のアデア岬へ、L.Kristensen、H.J.Bull等の一行が、捕鯨船“Antarctic”から行った。 この船は、オーストラリア人のブルがノルウェーの捕鯨業者を口説いて、同国のクリステンセンを船長として探鯨に出たものである。 船員の一人ボルヒグレヴィンクは、後年南極で初めて越冬している(1899年)。 (Ko) |
南極ことはじめ(4) 南極圏で初越冬 楠 宏 ベルジカ号”(250トン)に乗>ったベルギーの Adrian de Gerlache(ジャーラシ)隊は、ベリングスハウゼン海の中心部南緯71度31分、西経85度16分で、1898年3月氷に閉ざされ、翌年3月末まで漂流した。 この隊には、Roald Amundsen(ルーアル・アムンセン)が航海士として乗船しており、ピアリーと北極点到着争いをした米人クック、雪氷学のポーランド人 Henryk Arctowski(アルツトウスキー)、ドブロウォルスキー等も加わった異色の観測隊であった。 アルツトウスキーは、後に気象台長を歴任し、現在ポーランドの南極基地名となっている。 (O) |
南極ことはじめ(5) 大陸での初越冬 楠 宏 英人 C.E.Borchgrevink (ボルヒグレヴィンク、ノルウェー生まれで、祖先に英国人がおり、オーストラリアへ移住している時、クリステンセンの隊に参加)は、“サザンクロス号”で1899年2月17日アデア岬へ上陸。 ラップ人2名を含む一行10名は、気象、生物などの観測をして、翌1900年2月2日まで越冬した。 ロンドン出航が1898年8月、帰着が1900年6月であった。 1911年12月15日、ノルウェー人ルーアル・アムンセン、H.ハンセン、O.ウィスチング、S.ハッセル、Olav Bjaaland(ウーラフ・ビヤーラン)の一行5名。 イギリスのスコット隊4名は、翌年1月17日に到着。かの有名な悲劇的最後をとげる。 (Ko) |
南極ことはじめ(7) 極点上空初飛行 楠 宏 バード(Richard E.Byrd)ら4名の乗ったフォード3発機“Floyd Bennett 号”が、1929年11月日午前1時14分に南極点上空に到達したとされているが、その確証がないという説もある。 その後、1947年2月15日、バードは、ハイジャンプ作戦の時、米海軍の双発機 R4D(商用名 DC-3)2機で、再び極点上空を訪れた。 1956年10月31日、“ケ・セラ・セラ号(DC-3)”に乗ったアメリカ海軍支援隊司令官のJ.デュフェック少将以下7名が着陸した。南極点到達の3番目。気温−50の現地で49分間滞在後、マクマードの氷上飛行場へ戻った。 (H.O) |
南極ことはじめ(9) 南極での出生 楠 宏 1948年1月11日、ソビエトの捕鯨母船“スラーバ”の女給仕が子供を生んだという。 性別不明であるが、“Antarctic”(英文外電による)と名付けられたことから、男児と思われる。(ロシアの女性名は、母音で終わるのが通例であるから、女性ならば“Antarktika”となりそうである。) イギリスの軍艦チャレンジャー(Challenger、2,306トン、1,234 馬力)は、Geoge S.Nares 船長のもとに1872年から76年まで、世界一周の海洋観測航海に出た。 その途次、1874年2月16日に南緯66度40分、東経78度22分(デイビス基地の沖合に達した。 (H) |
南極ことはじめ(11) 自動車 楠 宏 1908年1月3日、イギリスのシャックルトン隊がマクマード湾のロス島(ロイズ岬)で初めて運転した。 Arrol-Johnston製、12〜15馬力、空冷4気筒、前輪を橇に取替えたりなどの試みがあったが、あまり実用的ではなかった。この時、 映画撮影を試みたが、これも>南極では初めて。 Caroline Mikkelsen(ノルウェーの捕鯨船、Thorshavn 号の船長 Klarins Mikkelsen 夫人)は、1935年2月20日、母船をボートで離れ、南緯68度39分、東経78度36分(オーストラリアのデイビス基地の近く)に上陸した。 同行は、夫と7名の船員で国旗を掲げ、Ingrid Christensen 海岸と命名した。 Sir Douglas Mawson のオーストラリア探検隊は、テレフンケンの無線機をアデリーランドの基地に持込み、マッコーリー島との間の交信に成功(1912年。気象通報の初めでもある。 風のためアンテナが倒されたり、苦労が多かった。夏期不通の理由として「太陽が出ているために電波届かない。」と報告している。 1962年3月、マクマード基地で気象ロケットを打ち上げた。 本体は米海軍の ARCAS(77ポンド)。テキサス大学の3名が従事した。到達高度は70〜80km。 (N) |
南極ことはじめ(15) 女性の越冬 楠 宏 1947年3月から翌年2月まで、アメリカの Ronne 南極探検隊は南極半島のストウニングトン島で越冬した。この地は、1820〜21年、米国のアザラシ船 Hero 号(船長:ナタニエル・パーマー、南極半島望見)の母港であった。 この時、隊長夫人と主席飛行士 Harry Darlington の夫人(新婚旅行)が参加し、女性の加わった探検隊にありがちな「もめ事があった」とも一部で伝えられている。 Ronne夫妻は1965年に来日している。 1902年2月4日、スコット隊はロス島で越冬し、越冬前、ロス島東方で人が乗った気球を揚げ(高度 240m)、ロス棚氷南方を望見し、シャクルトンが写真を撮る。その後、小屋を建設(現在小屋は史跡、Hut Point(岬))した。 この時、スコットは南緯82度17分まで達した。 1909年1月16日、シャックルトン隊の地質学者 T.W.E.David (1857〜1934)(当時、シドニー大学教授、後に Sir Edgeworth) は、当時、南緯度25、東経156度16分の南磁極付近に達した。 後年、David と行動を共にした Mawson は南磁極発見者でなく、“磁極付近到達者の一人”とオーストラリア紳士録を書き変えたと いう。現在の南磁極はアデリー海岸にある。 David は、1908年3月10日、活火山 Erebus の初登頂にも成功している。オーストラリアの切手に彼の顔が入ったものがある。 (N) |
南極ことはじめ(18) スチュワーデスの南極入り 楠 宏 1957年10月15日、アメリカ隊と契約したパンアメリカンのストラトクルーザー機がマクマードの氷上滑走路に着陸。 同乗の Ruth Kelly、Patricia Hepinstall の両名はスチュワーデスとして最初の南極入り。彼女らは、3時間半マクマード基地に滞在した。 兼高かおるは、日本女性で最初の南極行きである。 1956年11月25日、南極点基地建設の際にアメリカ空軍のRichard J.Patton 軍曹(31才)が成功した。 ボルヒグレビンク隊(No.151「大陸での初越冬」参照)のノルウェー人動物学者 Nikolai Hanson は、アデア岬の越冬小屋(隊長の母の名から Camp Ridley と命名)で内臓疾患のため1899年10月14日死亡し、裏山の中腹に埋葬された。 小屋も墓も南極条約に基づく史跡(南極環境保護法:1997年)となっている。 (N) |