巻頭
エステン
日本南極 地域観測隊第10次越冬隊は、昭和基地においてS.10トピックス社を設置し、日刊新聞「S.10トピックス」 (B6版ガリ版印刷)を1号から365号まで発刊した。
この新聞の中に、記者(I:石田恭市隊員)が隊員にインタビューしてその仕事を紹介した『隊員の仕事』という記事が28回のシリーズ掲載されている。
ここに、その『隊員の仕事』を紹介する。
(復刻版作成:鈴木剛彦)
T No.272 11月19日 宇宙線 OGURA (小倉 紘一)
U No.279 11月26日 超高層 HAYASHI ( 林 幹治)
V No.286 12月3日 電離層 OOTA (太田 安貞)
W No.292 12月9日 気象 G.SUZUKI (鈴木 剛彦)
X No.300 12月17日 大気電気 KONDO (近藤 五郎)
Y No.307 12月24日 地球物理 MASUDA (増田 実 )
Z No.313 12月30日 音波 Y.SUZUKI (鈴木 裕 )
[ No.321 1月7日 気象 SAKAI (酒井 重典)
\ No.328 1月14日 電波科学 TOKUDA (徳田 進 )
] No.333 1月19日 医学 HACHISUKA(蜂須賀弘久)
]T (増刊) 〃 調理 MURAKAMI (村上 捷征)
]U No.339 1月25日 通信 ASANO (浅野 英明)
]V (増刊) 〃 調理 WATANABE (渡部償怡致)
]W No.342 1月28日 機械 TAKEUCHI (竹内 貞男)
]X No.353 2月8日 通信 OKIYOSHI (沖吉 浩 )
]Y No.359 2月14日 土木建築 SEKI ( 関 孝治)
]Z (増刊) 〃 機械 INOUE (井上 正夫)
][ No.362 2月17日 雪氷 AGETA (上田 豊 )
]\ (増刊) 〃 雪氷 NARUSE (成瀬 廉二)
]] (増刊) 〃 地理 OMOTO (小元久仁夫)
]]T No.363 2月18日 地質 ANDO (安藤 久男)
]]U (増刊) 〃 医療 KIKKAWA (吉川 暢一)
]]V (増刊) 〃 機械 MAEDA (前田 祐司)
]]W No.364 2月19日 地質 YOSHIDA (吉田 勝 )
]]X (増刊) 〃 機械 ISHIWATA (石渡 真平)
]]Y (増刊) 〃 装備 YAGI (八木 實 )
]]Z (増刊) 〃 報道 KIMURA (木村 征男)
]][ (増刊) 〃 隊長 KUSUNOKI ( 楠 宏 )
隊員の仕事 T 宇宙線 OGURA “宇宙線中性子成分の連続観測” 要するに、宇宙の果てからやって来る、宇宙線というものすごい大きなエネルギーを持った粒子(昼夜の別なく降り注いでおり、地下数百メートルまで達する。)の観測をするのだ。 「宇宙線の主成分は陽子で、これが大気上空で空気分子と衝突し、中性子を放出する。中性子は、鉛とポリエチレンのシェルターのために減速され、BF3(三弗化硼素ガス)計数管の中でα粒子を放出する。計数管は全部で12本あり‥‥。」 彼の話は止まるところを知らない。 エネルギーの強さに従って6チャンネルを記録しているが、この内1チャンネルをデータ整理して、毎月モーソン及びケーシー基地とデータ交換している。 この他、集塵器を気象棟屋上に取り付け、宇宙塵の採集も行っている。古い機械のため時々故障するが、彼は辛抱強く、今日も気象棟へやって来て、機械の修理とフィルターの交換を行っている。 「今年は割合静かな年で、2月25日頃太陽面に大きなフレアーが出て以降さっぱりです。」と言いながら、今日のマグネ及びリオメーターの異常を聞き、サイエンティスト・オグラはデータ計算のため慌てて新観測棟へ駆けて行った。 (I) |
隊員の仕事 U 超高層 HAYASHI 日本を出る時持ってきた彼のテーマは、地磁気、極光、夜光を含めて9つもあった。それだけに、最初は観測機器を正常に動かすことに殆どを費やし、ミッドウィンター頃までかかったものもあると言う。9次隊の時2人でやっていた仕事を、10次隊では1人で受け持ったためだ。 「記録は一応取れたが、充分納得した観測ばかりとは言えない。観測機器は殆どのものがトラブルを起こし、一通り分解した。」という返事が返ってきたのも、当然のことだろう。 仕事の内容は、“太陽をエネルギー源に持つような地球近傍の電磁気的、光学的諸現象を調べる。”ことで、 Solar Terrestrial Physics に属する。その中で、特にVLFに関して興味を持っており、目的の9割は観測出来たと言う。「後は、帰国してから解析するだけです。」と、彼の表情は明るい。 VLFとは、100〜200kHz の地上以外に原因を持つ電磁波のことを言っており、これは、外側のバンアレン帯( outer radiation belt)に捕捉された電子の不安定性によって出来るもので、ポーラーコーラス(ピューッと言う音)やヒス(シューッと言う音)はその1つの現象の事である。 最近、生活が7日周期になっている原因を尋ねると、「あれはですネ‥‥、磁気テープの交換が26時間に1回なものですから、位相がずれて行くのです。まあ、仕方ないですね。」との事であった。 (I) |
隊員の仕事 V 電離層 OOTA 彼の仕事について語る時、副室の工事を除く事は出来ない。それ程、この工事は彼の部門としても、また我々10次隊としても、大きな仕事の1つであった。 4月18日に完成祝をした後も、彼は1人でコツコツと2週間以上も部屋の整理を続けていた。だから、彼の場合、実質的には2〜3ヶ月遅れで仕事を始めたことになる。 イ.電離層定時観測 ロ.リオメーターによる電離層の吸収及び電界強度の測定 ハ.オーロラレーダーの観測 ニ.VLF電波観測 「いきさつがいろいろありましてね。7次隊で 2.5人、8次隊で2人、9・10次隊は1人となったんです。まあ、毎日が機械のお守りに追われているようなものです。」と、奥深く立ち並んでいる機械を見て、ニッコリ笑う。 ルーチンの仕事としてのフィルム現像は、少ない時で3日に 100ft(30m)、多い時には毎日 100ftづつ現像したと言う。 彼の日本での仕事と関係あるものとして、VLF電波観測があるが、これは 16kHzのイギリスのラグビーからの標準電波(GBR)を受け、その位相差を見ることにより、電離層の構造を調べるのだと言う。 「これは私の本来業務で、帰ってからこのチャートを解析するのが楽しみです。RIO(Relative Ionospheric Opacity)メーターも面白いですね。やっぱり銀河系の中心部射手座付近から、最も強い電波がやって来ています。」と、彼の目はユウゾウ君のようにますます澄んできた。 (I) |
隊員の仕事 W 気象 G.SUZUKI 彼が基地に入ったのは、我々10次隊の第1便が飛んだ今年1月6日であった。9次隊の気象応援のためで、それ以来ずっと観測を続けている。11次隊との交代が来年1月31日であるから、13ヶ月間基地で観測することになる。これはどの隊員よりも長い期間だ。 彼の主な仕事は、ゾンデを揚げて上空の風、気圧、気温、湿度を観測し整理することだ。グリニッチ時で0時の観測であるから、ここでは朝3時。気球に水素ガスを詰めたり、準備する時間を入れると、1時から4時までは殆どお茶も飲めないくらい忙しい。完全な夜行族の一員になっているのも止むを得ないだろう。この他に、電気、放射及びオゾンの特殊ゾンデを年間95個揚げる。 データをより効果的に得るために、日本にいる時、既に飛揚予定表を作って来ました。 今までに失敗したのは僅か3つ。 まずは大成功だと思います。」、「1月にオゾンゾンデを3つ揚げますが、全部成功させる自信はあります。」と、仲々たのもしい。 この他、自分の興味として地上オゾン量を測定している。7次隊が残して行ったオゾンゾンデを利用して、5月末から3日に一度く らいの間隔でずっと続けている。言わば廃物利用だ。空気中のオゾンの動きが分かると大気の動きが分かる。地上のオゾンは、恐らく上空からやって来たのであるから、その量を調べることは気象学上としても興味あることだ。「絶対量は難しいが、年間の大体の傾向はつかめそう。」とのこと。 最後に、この1年間で特に感じた事を尋ねたら、「そうですね、贅沢は言えませんが、1日に2回の高層観測があってもよいから、 もう1人欲しいですね。やはり、休みが欲しいです。」とつぶやいた。 GO ON MOU SUKOSHI DA. (I) |
隊員の仕事 X 大気電気 KONDO 「テーマは、隊員必携4ページに載っているとおりです。」 どこかで聞いた事のある発言である。そこには、大気電気観測、雲物理学観測と2行書いてある。 茨城県柿岡の地磁気観測所で仕事をしていたから、“気象研究”と言っても、内容はともすると超高層グループに近い。 「要するに、空中から地球に流れる電流の量を調べる。」のだそうで、原理はオームの法則だけ。「1mにつき地上付近で 80〜100Vの電位差がある、という当たり前の事が知られていないのは、やはりPR不足です。」と、自己批判することを忘れない。 基地では、大気電場計、大気伝導率計及び空地電流計のお守りをした。 5月上旬にあったA級ブリザードで、塩害のため1週間欠 測があった他は、ほぼ目的を達成したと言う。. 「新しい事はさっぱりだが、大気電場は世界中どこでもグリニッチ時で18時〜20時の間に最大、2時〜4時の間に最小になるという事を、昭和基地でも残念ながら認めざるを得ない。地球上の大陸の分布差からくる雷雲の発生が、結局地球全体の電場を支配し、極地方にまで及んでいることに驚異を感ずる。」と言う。資料はその都度整理しており、帰国後6ヶ月以内にはレポートを出すそうだ。. この本職の仕事の他に、雲物理2年目として雪のレプリカと海塩核のサンプリングを続けてきた。 今までに、レプリカは 180枚、海塩核のサンプルは 321枚になる。海塩核は、一度に 100cc吸い込む浣腸器のような採集器でピストン運動をさせ、総計39リットルの空気を吸う。真冬の骨まで凍みるような7,8月に、最低15分外に出ているのは大変なことだったと言う。. 「まあ、研究観測と言っても、地球物理学に関してはルーチンと同じようなものですよ。」と、静かに語る総長の顔には、自然科学に対決する厳しさがにじみ出ていた。 (I) |
隊員の仕事 Y 地球物理 MASUDA 観測部会の報告で、彼はいつも最も多くの時間を費やしている。 何故なら、彼はK0(極光定常)、K2(地磁気定常)、K7(潮汐)、K8(地震)、K9(測地)と、基地内で最も多くの部門を担当しているからである。一口に地球物理と言っても、上はオーロラから下は地球内部の地震まで、全く別の仕事を1人でやることは、並大抵のことでは出来ないはずである。事実、過去の隊では、それぞれの特技に応じて重点的に仕事をせざるを得なかった。この大きな疑問点について質問すると、「それは、ability の問題じゃないですか。」 と言う答がポンと返ってきた。しようがないから、1つ1つの部門について、ここ1年を振り返って聞いてみた。 K0の全天カメラの写真は例年どおり。特徴としては方向、変化、微細構造について正確にスケッチし、さらに 3,000枚のスチール写真を撮ったことで、枚数は過去の隊より多い。 K2については、欠測が非常に少なく、今までに2時間だけ。絶対測定は6月後半からは10日に1回で、9次隊の1ヶ月に1度とは 比べものにならない。 K7は8月28日以降記録不能になったが、例年と比較しても普通である。間違いなく通年観測が出来るようにするためには、海水導入方式を今後考える必要がある。. K8は現在1週間に1〜2回の読み取りを行い、国内及び南極各基地に報告している。更に、長周期のものとして1秒のものを30秒用にセットしたため、1ヶ月10〜20個の記録が取れた。これは非常にめずらしい。. K9は大豊作と言っても過言ではない。10次隊の夏でスカーレンの測地網が完成し、この付近の2万5千分の1の地図が作れる。10月の調査では、スカルブスネスの三角網も完成した。フレッタ湾の測量、東西オングル島の重力測定と満足すべきものばかり‥‥。. 1年間を振り返って、最もつらかった事はオーロラを観測している時。更に、地震、検潮、地磁気が重なった時で、1日に4時間程度しか睡眠が取れなかった時だそうで、ESSAも人の子であると記者は判断した。 (I) |
隊員の仕事 Z 音波 Y.SUZUKI 音波音波と人は言いますけどね〜。私はあまりこの言葉を使いたくないんですよ。そうですね〜、微気圧振動と言って欲しいんです」 と学者らしい発言だ。 図を見て頂こう。彼の受信装置は、1秒から 600秒までの波を受けることが出来る。グラフの右側の方は、一般の音とは完全に性質を異にした、いわゆる微気圧振動なのだ。最初の論文は、1961年ワシントンでのヤング、レモン、グリーン、クルザノフスキーのグループの実験による。彼等は、周期20〜80秒の波がオーロラに原因があると報告した。日本では、彼の出身地、阪市大工でマスターコースのテーマとして1964年頃から準備を進めてきた。 「装置は簡単なんです。気圧の変化でコンデンサーの容量が変わるマイクロホンで受けて増幅し、記録させるだけですから。しかし、 簡単なもの程、実はたいへんなんですよ。」と、最後の言葉をつけ加えることを忘れない。 観測開始は3月20日であるから、大分遅れた。しかし、彼は目的であるオーロラからのこの波を見事にたくさん捕らえている。周到な準備と粘りが、その結果をもたらしたのであろう。. 「ケーブルの接続には泣かされました。1ヶ所に2時間トーチランプで温めて、ハンダ付けをしたのです。20ヶ所はありました。岩に開けた穴の数は多くて忘れました。」 . なつかしんでいるのは、当時の頑張りが現在の成果をもたらしたからであろう。新しい分野である。あと2年、記録は続けられる。 立派なペーパーを期待しよう。 . (I) |
隊員の仕事 [ 気象 SAKAI 彼の出身はご存じ山形地方気象台である。 職員およそ30名。そこで4年間、現場の第一線で働いた。 「地方なので、気象技術関係の一通りの仕事はしました、」と言う。いわゆるレパートリーが広い。その間に、管内の研究会に2度の参加し、発表している。立派なメテオロロジストだ。基地に来てからは、主に地上気象観測を担当し、毎日毎時間の12種に及ぶ気象要素の記録を統計、整理している。10日目毎の旬の統計値を、月末には1ヶ月間の統計値を計算し、直ちに南極資料解析センターへ気候電報として通報している。月始めに必ず徹夜しなければならないのは、このためである。 この他に、既にポンコツに近い上利式(あがりしき)自記温度計を使用して、地中及び下層付近の計6点の年間の温度の変化を調べた。彼本来の仕事以外の仕事であるが、既に一部は整理し、越冬報告にも載せる。 「〇月〇日〇時はどんな天気で、気温は何度でした? そして、その日の最低気温は?」 . 過去の気象についての整理はほぼ完全になされているから、答はすぐに返って来る。地上気象の問い合わせは、まず彼に聞く事だ。. この地味な仕事に従事しながらも、「この1年間は楽しかった。仕事の上でも、そんなにつらい事はなかった。」と言えるのは、27才という若さと67kgという体力のお陰なのだろう。 . 「こんな生活なら、もう1年越冬しても良いですネ〜。」と言ってから、急に KEIKO の事を思い出したのか、「これは絶対に書かないで下さい。」と慌てて口を押さえた。 (I) |
※ 本日、11次隊の代表約13名が基地を訪れた。 10次隊は、RYOKO、HIROKO の看板娘を先頭に、得意のホキホキ作戦で歓迎した。 一行は、予定時間を3時間もオーバーして、10次隊へのコンプレックスを解消した。
隊員の仕事 \ 電波科学 TOKUDA 彼が担当している仕事は3つある。 a)VLF空電方位頻度の測定 b)低周波帯電波の偏波入射角の観測 c)Faraday ローテーションの測定 であるが、何れも目に見えないものを調べているのだから大変だ。記者は何度も同じ質問をする。その度に親切に説明してくれるが、 ピントが合わず益々分らなくなってしまう。 要するに、彼の出身、名古屋大学空電研究所の名の示すとおり、空電を調べている。その中に、地球上層からやって来るものと、地 球表面で発生するものの2つがある。aは後者に属し、bは前者に属する。cは、人工衛星から出た電波が電離層を通過する時、ファラディ効果により変化を受けるが、その量から逆に空間の電気的性質(電子密度)をしらべようとするもので、これは電波研と空電研との中間領域に属する。bはVLFエミッションにより発生する電波であるが、aは空電研本来の仕事だ。 ここでは、一般のノイズがシグナルである。発生源は雷が大部分で、これを調べると低気圧や台風の位置が分かると言う。国内では、北海道、鹿児島、愛知県の3ヶ所にこの装置を取付け、台風の位置を推定する準備が進められている。ここ昭和基地でも、大きな低気圧がやって来ると、やはりシグナルが増加する。逆に、ブリザードの予報が出来るはずだが、そこは慎重な彼、「そういう例もありましたが、詳しくは帰ってから‥‥。ただ、年間を通じて南アフリカ方面からのシグナルが強いようです。」とのこと。やはり、人間が住んでいるといろいろなシグナルが出るのかもしれない。 「手作りの機械ばかりなので、いろいろ調整に苦労しました。引継ぎは他の部門の人(電波研)に依頼するので、早く船には戻れません。」とのこと。 「もう一度南極に来たいですか?」の問に、「いや Heiraten が先です。ただし、半年は静観です。何故って? 大きなシグナルに合うように、機器を調整するのに時間がかかるからです‥。」だってサ。 (I) |
隊員の仕事 ] 医学 HACHISUKA “南極における「ヒト」の適応性の生理学的研究” a)代謝面における人体適応 b)南極における気象リズムの変化に対する人体適応 c)南極におけるヒトの活動と体力 マルハチ 以上がDr.Gの観測テーマである。 歩きながら口に体温計を咥え、秤を側に置きながら食事をし、他人の胸の中の空気と小便をもらい受けて、この1年を過ごした。 今までの観測者の対象が自然物であったのに対して、彼のは動物であり、しかも人そのものである。自然物はこちらの意志で自由に選び、観測環境をセット出来るが、人の場合は相手の意志が大きく影響する。同じフィールドワークでも人を対象とする場合の困難性がここにある。しかし、彼はライフワークとしてこの道を選んだ。 「私は元々人と接触するのが好きなんヤ。」と言うとおり、基地に来てからも、彼は仕事、生活両面で人との接触に終始した。国内で、例えば児童の食事の量をアンケートで調べると、必ず予想値よりも多くなる。これは、母親の見栄という目的から、はずれた要素が入ってくるからで、良いデータを得るためには、「被験者との接触を深めることが極めて重要なんヤ。」と言う。 「振り返ってみて、この1年間被験者達から嫌味一つ言われたこともなく、予定どおりの仕事が出来ました。皆さんの協力のお陰です。」 彼の口からは感謝の言葉が消え去らない。常に被験者の身になって、測定の時間、場所、方法などを考え実施したところに、大きな成功の原因があるようだ。 「振り返ってみて、この1年間被験者達から嫌味一つ言われたこともなく、予定どおりの仕事が出来ました。皆さんの協力のお陰です。」 「東京段階で、職種、年齢、体力などの面から被験者を選び実施したことは、慣れと理解を深めただけでなく、国内での資料を初めて得たという点で、非常にプラスだった。また、副次的に持って来た万歩計が意外に有効だったので、驚いている。やはり、昭和基地は蟄居生活だ。」 周到な準備と鋭い観察力で、彼の研究成果は帰国後立派にまとめられるだろう。 (I) |
隊員の仕事 ]T 調理 MURAKAMI 調理担当と言えば、多くの人はその仕事の内容までわかったような気になる。しかし、それぞれの道に入ると、他人の知り得ぬ苦労がたくさんある筈だ。まして調理に関しては、相手が人間であるだけに‥‥。そう思って彼に尋ねてみたが、控えめな彼は一向に言わない。 「私は何も知りません。ただ、言われたとおり仕事をしてきただけです。」と逃げるだけ。料理学校を出て、調理士の資格を取ってからずっと東條会館勤め。専門は洋食である。しかし、基地では、和洋の別なしに料理を作っている。この1年、味付け、料理方法などで得ることが多かったと言う。 「食べ物のウラミは恐ろしい。」と言われるここ昭和基地で、隊員の中から料理についての不平を、記者はまだ聞いたことがない。それだけに、担当者の苦労は大変だったのだろう。 NABEさんと朝食当番を一週間交替で行ってきたが、「食事をする人数がしょっちゅう変わり、最初の頃はとてもやりにくかった。」 と言う。「第一、材料の無駄になります。」と、静かだがビクッとする言葉が返ってきた。つらかった事を尋ねると“休みのない事”だそうで、「日本では、基地の仕事よりもっと忙しい時があるが、休みがあるから“子供でも連れて遊園地に出掛ける”といった事も出来る。ここでは、日曜日でもサッパリ休んだ気がしない。」と、若さのはけ口を一生懸命捜しているようだった。 (I) |
隊員の仕事 ]U 通信 ASANO 「仕事の事について尋ねたいのですが‥‥?」 「よした方がいいんじゃないですか。別に変わった事をしているわけではないのですから‥‥。」 「通信の中味は、昭和基地ではむしろある程度知られた方が‥?」 「まずいんじゃないんですか。やはり、基本的人権の一つですから‥‥。」 「夜勤はどうでしたか? つらかったですか‥‥?」 「別にどうって事もありません。国内でも同じ事をやってますから‥‥。」 まさに優等生の返事である。感情を交えず、常に機械の一部になり切っている彼の姿は、「無線局とは、無線設備及び無線設備の操作を行うものの総体をいう。」の、電波法第1章第2条5項の規定そのものである。素人からみて、恋人や新婚間もない人達の熱々の電報を見れば、いろいろと刺激されるだろうと思うのだが、そのような余地はないそうだ。 「そうですね〜、慣れない人がやれば、いろいろと感情が入るでしょうね。我々の場合は、10分か20分で忘れてしまうことがあります。」とのこと。さすが銚子無線局きってのベテラン1級無線通信士である。 過去に南極に来た通信隊員のうちでは、西部隊員(8次越冬)についで、南極と通信連絡をしている期間が長い。いわばメンコの数が多いわけだ。帰ってからも、また昭和基地と交信する仕事に入ると言う。 国内では、受付→検査→打電、受電→検査→転写→配達、〆検などの係があって仕事をしているのに、基地ではそれらを1人でやっている。自分の仕事と立場を完全に理解して、タンタンと語る彼の表情には、基地生活の縁の下の力持ちとしての静かさと重さがにじみ出ていた。 (I) |
隊員の仕事 ]V 調理 WATANABE 「“食いも食ったり、飲みも飲んだり10次隊”と、よく言われますが‥‥?」 「確かによく食べ、よく飲みました。倉の中はほぼ空です。」 自ら調達し料理し、余すところなく予定どおり消費し得た事は、担当者として、この上ない喜びではなかったろうか。 「大体、人間というものは、生活水準が上がると、食べ物についてもより我ままになる。その我ままな要求を満たす事は、南極での食生活のあり方を技術的に考えた場合、いい事か悪い事か分からない。しかし、私は私なりに、皆様の要求を満たすよう努力してきたつもりです。まあ60%の出来ではないかと思っている。」 「感じとして、専門の洋式料理だけでなく、和、中華も大分出たようですが‥‥?」 「現代の料理人は、和・洋・中の専門に分かれていて、他のパートの事はあまり知らない。事実それ程内容が高度になってきている。ところが、私の場合、前に一応和食や中華をやった事がある。その上、現在のところは大きな調理場の中に同居していて、他の部門の調理の仕方を見ることが出来る。だから“門前の小僧”で、知らず知らずのうちに料理のコツを覚えたのだと思う。」 「料理をうまくやれた原因は‥‥?」 「いろいろあるが、@倉庫の確保で、ほとんどのものをよく保管出来た事。A担当者が2名になり、管理がほぼ完全に行われた事。」 「基地の料理の特長は‥‥?」 「意識して和・洋・中の特長を出さないよう苦心した。私は、こ の1年間、和・洋・中らしきものを作って過ごした。私は、まだまだ料理の真髄を掴んでいません。」 最後のところを彼はしきりに強調していた。 1年間、イヤ本当にご苦労様でした。 (I) |
隊員の仕事 ]W 機械 TAKEUCHI 基地での機械担当者は4名であるが、文化基地 “SYOWA”では、観測、生活、行動のことごとくに機械が関係している。 その中で、特に彼は、燃料、油脂関係の補給管理を担当した。また、9月に井上隊員が怪我をしてからは、車輌整備を受持ち、さらに、旅行隊が出発してからは、前田隊員の担当していた消火器、電話、非常灯等の雑機械と言われている小施設全てをも担当した。しかし、実は彼の本当の専門はディーゼルエンジンなのである。 「何故、観測屋と異なり、こうもいろいろな事をしなければならないのか‥‥?」と、思ったことも度々あったのではなかろうか。 「設営は、皆さんのためにあるのですから‥‥。」と、ポツリと一言。とにかく、彼はいろいろな機械を片っ端から直してくれた。 「ところで、機械担当から見た将来のあるべき基地の姿は‥?」と尋ねたところ、次のように整理して説明してくれた。 まず、発電機を大型にして1台にする。現行のような、一度に10時間以内使用の非常用エンジンを常用に使うといった方法は、もう止めるべきである。 次は、倉庫業務を充実させる。デパート形式にして、倉出し倉入れ等の専門官を設けるべきである。そうすれば、いろいろな部品作りや探しにやっきとなる必要はないし、物品の需給関係にも無駄がなくなる。 3番目は水問題。 100キロリットルタンクの設置で良くなったが、安心して良質の水を1年間使えるようにしたい。 「基地の料理の特長は‥‥?」 4番目は暖房。そろそろ基地も集中暖房を考える時ではないか。 5番目は車輌の増強。機械力を考え、もっとタイヤものを増やすべきである。 最後に、極地部を充実させ、設営部門が1年ポッキリで交替している現状を、1日も早く改善すべきである。 まさに、TAKERA の構想であった。 (I) |
隊員の仕事 XX 通信 OKIYOSHI 彼は、越冬前半あまり我々の目につかなかった。通信棟という一つの部屋での仕事が大部分であったことにもよるが、実は、彼はせっせと送信棟通いをしていたのである。 再開の7次隊で通信棟と送信棟を建設し、1kW SSB送信機を取り付けて飛躍的に充実されたとは言え、その後通信隊員は、8次隊でプラトー、9次隊で極点と、内陸旅行に駆り出されている。そのため基地のメンテナンスも思うにまかせず、10次隊においては、整備すべき個所が満杯に近かった。 すなわち、 ・7次隊の持参した1kW SSB1号機の写真電送の電波形式の変更 ・更に、通信棟からのリモコン不能の回復 ・8次隊持参の2号機をテレタイプ送信出来るように ・旧1kW送信機をロンビックアンテナに乗せて銚子宛の専用機に ・内陸通信用 50W SSBの整備 である。 「国内ではネ、“予備機がなければ仕事をしない。”というのが常識になっているんです。それでネ、専門屋から見た越冬当初の機器の状況は、全く心細いものでした。そうですネ、今は 300%OKです。」と、11次隊への引継ぎにも彼の顔はほがらかだ。 この1年、彼は通信士−応急(修理)士−整備士−整理士−通信士と、通信の確保に全力を傾け、目に見えない国内と我々昭和基地とのヒモを固くつないでいてくれた。 (I) |
隊員の仕事 ]Y 土木建築 SEKI 専攻は土木工学科。日本では、関組のリーダーとして現場回りや入札関係に飛び歩いていた。 基地で手掛けた建物は、第10居住棟、作業棟増築、レーダーテレメーター室、組立調整室、コントロールセンター、検潮儀室の6つ。この他に、越冬に入ってから第10居住棟の通路、電離棟副室、放球棟への半コルゲート通路を作っている。また、今年になって11次隊への協力として、第1倉庫、第2倉庫、地震計室、ロケット発射台の4つをも手掛けた。これらが僅か2ヶ月程度の夏期間に集中して いたにもかかわらず、持ち前のタフネスぶりを発揮してやり遂げている。技術的にみた場合、国内とあまり差はないが、やはり熟練者がいないことは大変だったようだ。 「しかし、言わば素人を集めての仕事であったのに、ケガ人が出なかったのは本当にうれしかったです。」と、しみじみ述懐した。 また、10次隊の特長として、コンクリートを大量に使い始めたが、それが可能であることが分かり、今後益々大型化していくだろうとのことだ。さらに、経費の点では、国内と同型の建材を使うべきで、特注は避けるべきとの抱負を述べてくれた。 最後に、仕事以外のことでは、「イヤ、この1年間本当に楽しく過ごさせてもらい、また勉強させてもらいました。感謝しております。」とのこと。 越冬中は、装備、非常小屋、給水、火薬、ライフロープ、そして Bar と設営六般にたずさわり、さらにスキーリフト、剣道着を作るなど多角経営してムード作りに励んでくれたことは、隊全体としては非常に大きな意義があった。 お陰を持ちまして、我々は、カケヤ、タッカー、シノ、バール、バンセン、オスラー、チョウセンキ、コロ、ピーアなどの言葉を覚えました。ありがとうございました。 (I) |
隊員の仕事 XZ 機械 INOUE 隊員の仕事といっても、設営部門では、国内での仕事と基地での仕事にかなり差があることは今までに記した。その極端なのが機械部門である。 国内では、彼は純粋のエンジンマンである。しかし基地では、強電力発電機関係の管理維持を行い、さらに給水、風呂、水洗便所と水に関するもの全てを担当した。その上、越冬後半には車輌関係一切の面倒をみるといった手広い範囲になった。何れも毎日目を離せないものばかりであり、その点意外に人の気が付かないところで苦労している。65kVA 発電機のエンジンが不調になり始めた5、6月頃は、一寸音が変わっただけでビクビクして眠れなかったそうだ。全体会議の時など、しばしばエンジンの現状を報告して節電に協力を呼掛け、不調のエンジンをあやしながら遂に1年間もたせてくれ た苦労は、本人でなければ知り得ないだろう。 「65kVAをすぐ65kW使えると勘違いする人がいるから困る。実は、力率を考えると52kWなんだ。それに短時間ならフルロードでもかまわないが、1年間もたせるためには、どうしても安全運転しなければいけない。まあ、60%を考えて39kWというところが最も良いのじゃないか。大体、“機械と人間とは一緒だ。”ということを忘れちゃいかん。」 最後のところを特に強調した。 入浴日が多く、自由であったのも10次隊の特長であった。1週間2回の入浴日はもちろん、フィ−ルド調査から帰って来たパーティがあると特別入浴日を設け、さらには12月末からは連日自由というサービスにもっていった。その維持管理の苦労は、「皆が入りたいというから沸かしたまでだ。」と、当たり前といった顔。目に見えない我々の活力源になっていた訳だ。 「ところで、また南極へ?」 「そうだナ、夏と冬と一度ずつ来たからもういいナ。撮りたい写真も充分撮ったしナ。」 「苦しかったですか?」 「イヤ、忙しかったナ。」 「楽しかったですか?」 「まあネ、それよりもボケていると思うんだ。家の電話番号なんか忘れてしまった‥。これからが大変だナ。」 考えは、既に日本での仕事と生活のことで一杯のようであった。 (I) |
隊員の仕事 ][ 雪氷 AGETA 専攻気象学。現在の籍、名古屋大学水質科学研究施設。卒論は微気象。やりたい事は地球全体の水収支。そして長期気候変動だが、 越冬前半は海氷調査と積雪調査に終始し、旅行中は専ら測量と気象観測に従事した。 「今度の内陸調査は、6年間も続くグループ研究の一部を受け持っているもので、学者にありがちな個人的な行動だけでは成し得ないものです。成果は6年後に現れるのであって、私としては、与えられた分担をやってきた、というだけで充分なのです。」 話のスケールが全然違う。 「例えば、昭和基地からすぐ目の前に見える大陸沿岸の氷が、毎年どれくらい動いているのか、といった事が全部分かっていないんです。1年の内1日か2日手を掛けておけば分かる事なんですヨ。もう10年になるというのに、一体何をしていたんでしょうネ。」 全く恐れ入りました。すぐに成果、成果と問う人達に是非読んでもらいたいところだ。探検から科学への幕開けとしての10次隊の果した役割は、基礎観測のレールを敷いたという点でも、大きな意義があったのではなかろうか。 この他に個人的な興味として、雨や雪の生成に不可欠な海塩核の採集を、ほぼ基地内、内陸旅行を通じて行っている。 そうですネ〜、現像、定着は済ませてしまいました。後は整理だけです‥‥。」 −20度以下の寒中で、食堂棟の屋根の上に30分以上も座り込んでサンプリングしていた彼の姿を想い出し、そこに彼の山男としての強さと科学者としての探求欲との融合体を感じた。 (I) |
隊員の仕事 ]\ 雪氷 NARUSE 彼の基地での仕事で一番目に付いた事は、ほとんど測器らしい測器を持たないで仕事をしていた事であろう。少なくとも、トランジスター、ICの入っていない器械はないくらいに発達しているエレクトロニクス時代に、一人巻尺とポールで現代の科学に挑戦してる姿は奇異に感ずる。 氷厚測定器というからどんなものかと思ったら、単に巻尺の端に長さ20cmくらいの鉄棒を付けただけのもので、他人が見たら、とても instrument とは思えない。この事について尋ねると、「そうですか、私は、人間が最も能率の良い機械だと思っているんですよ。大陸の中で、何十万円もする器械が壊れて修理不能になったら、せっかくの仕事もフイになるでしょう。私は、人間ほど精蜜な器械はないと思っています。」 確かに、フィールドワークの一面を示してくれたような気がした。 基地周辺では、40数本の積雪測定用ポール(竹竿)を立てて積雪の変化を調べ、内陸旅行では、400〜500本のポールを立てて大陸氷の移動を調べる測定点とした。最も安上がりな、しかし労力のいる仕事を、基地随一の軽さでやっていた訳である。 エンダービーランド長期雪氷計画の立案者である故大浦浩文教授のところの所属であるから、これからの彼の仕事は、当分南極、取り分け内陸調査と密接な関係を持たなければならない。 こうしたグループ活動の他に、大陸の氷のコアサンプリングを50数ヶ所で行って、年間積雪量の推定を試みるなど、とにかく意欲的に動いていた。 (I) |
隊員の仕事 ]] 地理 OMOTO 10次隊が基地に到着した1月上旬から、既に彼は建設作業の合間をみて、彼自身の仕事を始めている。土壌水分、地温の観測だが、これは、どうしても夏期間でなければ得られない観測だからだ。 彼の主たるテーマの一つ“周氷河地形現象に関する研究”の中で、水分の凍結、融解に伴う地形変化は極めて大きい。 「地理部門は、ここ当分南極に来ない。だから、私は“今までの資料のまとめをして、一つの区切りを着けなければならない。”と、日本を出る段階で言われて来た。だから、実は大変だったのです。」と彼は言う。 氷期ゼミナールに参加し、自己の知見を深めると同時に、規則正しい日課を作り、計画を立てた。ステレオトップを用いた地形図作り、東オングル島、ラングホブデ、スカルブスネス地域に出掛け、 数千年前海辺であったことを示す隆起汀線の測量、さらにいろいろな資料の採集を行って、地理屋さんの大きな作業である編年(地形発達と年代測定を組み合わせること)の基礎作りを行った。 内陸旅行では、独得のエレキの強さを買われて、8次隊と9次隊が失敗しているアイスレーダーを保守し、見事その測定に成功したが、やまと山脈での地形調査が日数の関係で十分でなかったことを、今でも残念がっており、「そうですね、実働20日間は欲しかった。」とのことである。 「1年を振り返ってみて、100% 仕事が出来たとは絶対に思えません。しかし、日本に帰っても、恥ずかしくない仕事をしてきました。」 記者は、結びの言葉を最も強く彼の話の中から汲み取った。 (I) |
隊員の仕事 ]]T 地質 ANDO 地質鉱物学専攻。現在の籍、北海道開発局農業水産部。だから、10次隊の内陸調査旅行の主たる目的である“エンダービーランド地域雪氷学的長期計画”とは、全く関係がないと言ってもよい。 日本では、水資源利用の立場から、地下水や河川源流域の水量計算とその効率の推定、計画を行っていたが、南極では、氷に変換れた水収支を調べようというのだ。 旅行に出るまでの約半年間は、内陸旅行準備の片わら、基地における水問題の解決に意を注いだ。氷を切り取って貯蔵する試み、電熱ヒーターで氷を解かし、水資源にする実験、また、氷山氷の採取計画、みどりヶ池の水汲み問題等、基地生活の根本問題の一つである水に関しては、過去の隊以上に種々の試みを行った。お陰で、少なくとも水に関する限り、10次隊はほとんど心配することなしに十分に使用する事が出来た。 本旅行だけでも 120日間に及ぶ長期の旅行隊長としての心労は、さすがに隠す事が出来なく、出発時よりも4kgほど痩せ、56kgになって帰って来た。本人はいかにもおおらかに、「別にたいした事もなかったですネ。」と言っている。 「一番心配したのは観測機器の故障であったが、大きくみて、予定通りやってきたと言っても良いだろう。」とのことだ。それよりも、少なくとも、全員が事故1つなく無事帰投出来たことは、彼の全人間的統率力の成せる技ではなかったろうか。 アンチン、本当にご苦労様でした。 (I) |
隊員の仕事 ]]U 医療 KIKKAWA この1年間、10次隊は大きな病人も出ず、全員“ふじ”に乗り込むことが出来た。ドクターとしてはホッとしていることだろう、と思って尋ねてみると、確かにホッとしているが、医療施設からみると、全ての点で国内とほぼ同じくらい整っており、「基地で治らないものは国内でも治らない、と言ってもよい。」そうだ。 彼の専門は整形外科。南極では外傷が多いだろうからということで、過去の医療担当者は全て外科出身である。 治療は1年間で約 140件ほどあったが、その内凍傷が25件もあったと言う。国内では、1年に2回は必ずかかるくらい横行しているカゼは、さすがに殆どなかったと言う。 「患者が少なかったから、仕事の面で大分ボケたと思うんヤ。国内では、半日に 100件くらい診るのが普通だからナ。まあ、もともと健康な人間が選ばれて来ているんだから、繁盛しないのが当たり前だと思うがナ。」 それでも、2月末に太田隊員が脱水症状で倒れた時は、原因が分かるまで心配だったそうだ。基地で初めての点滴もうまくいき、すぐ快復したが、一時的過労だったようだ。医療担当としては、こんなに患者が少ない手数のかからぬ所はないそうで、いわば天国のような生活を送った訳だが、器用さを買われた雑用の方がむしろ大変ではなかったろうか。 指尖の1本1本について、サーミスター温度計で皮膚の温度を測ったり、脈波計で血液の循環の様子を見、握力計でその力を測り、基地における健康管理の一助とすべく、定期的に全隊員について調べていたが、むしろ診療所通いの我々の方がなつかしく感ぜられる。 最後に、基地の医療施設として「レントゲン室と消毒などのための給水施設が欲しい。」とのことだった。 (I) |
隊員の仕事 ]]V 機械 MAEDA 現在、工業技術院機械試験所勤務。工学部電気工学科専攻。卒論は“エザキダイオードで有名なトンネル効果”。現在の仕事は、ロケットなどに使用出来るような、超高速回転に使える高硬度の歯車加工をやっている。 これだけ聞くと、どうしても基地での彼の職務分掌を想像する事は出来ない。交替でやっている発電機等の機械の見回りの他に、電話、火災報知器、非常灯、街灯、それに弱電関係一切を担当した。 「つらかったですか?」の問に、「楽しかったですネ〜。国内では、研究室という狭い範囲内の仕事に限られていますが、基地に来ると、自分の専門の事など言っておれない。それだけに、非常に視野が広くなりました。人間関係についても同じです。」と、答えてくれた。 例の火災報知器の事に触れると、「イャー、あれには全く参りました。確かに、10の誤作動があっても1の正常な作動があるならば、その装置は付けるべきなのです。とは言うものの、誤報が多過ぎましたネ。隊員の皆様にはご迷惑をかけました。でも、実のところ、 本物の火災がなく、1年間過ごせたちう点ではホッとしているところです。」と、しみじみ述懐した。 「1年のうちで、特に、やまと山脈を一番先に望見した時の感激が今でも忘れられない。」と言うあたり、とても多感な好青年である。自分のやりたい専門の事を完全に捨て、隊として立派な観測の成果があがるように、との態度に終始した彼は、最後に「南極は、まず、好きな者が来るところです。」と、1年間の結論を述べてくれた。 (I) |
隊員の仕事 ]]W 地質 YOSHIDA 地質鉱物学科岩石学専攻。 「鉱物の集合体が岩石、岩石の集合体が地殻、そして地殻のごく表面で人間は生活している。だから、人間誰でも岩石に興味を持てるようになっている。」とのことだ。 そういえば、昭和基地でも訪れた人の大部分が石に興味を持っていた。 「どんな石でも、実はその中に何千万年、何億年という長い歴史を含んでいるもので、ジッと見ていると、古い時代の地球の様相が目に見えるような事がある。」と言う。 彼のテーマは、“リュツォ・ホルム湾沿岸及び内陸露岩地域の地質学的研究”となっている。いわゆる本当の石屋さんは、過去に1・4・9次隊の3回参加しているが、調査範囲は狭く、限られた地域だけであった。今度は、さらに面を広げて調査すると共に、過去の地域に関して、さらに詳細に調べて地質図を完成させようというのである。 彼は、この1年間、北はオメガ岬、南は白瀬氷河、そして内陸はやまと山脈と、広い地域にわたり岩を求めて歩いた。そして、フィールドから帰って来ると、岩石研究室に閉じ篭り、ある時は徹夜で厚さ 0.03mm の岩石薄片を作って調査、解析活動を続けた。 「そうですね、70枚くらいは作りました。」と、彼は言う。 この他、海底の地質を調べるため、海氷に穴を開け、深さ数百mの海底から泥(底質と呼んでいる)を採取したり、内陸旅行では、 測量、重力測定など専門外ではあるが、与えられた仕事のために精力的に動き回った。 「こんなにたくさん仕事が出来たのは初めてで、本当に多くの隊員に手伝って頂きました。感謝しています。」とのこと。 1年を振り返って、「忙しかったことが、全て楽しかったことに通じていた。」と、最後に語ってくれた。 (I) |
隊員の仕事 ]]X 機械 ISHIWATA 彼は、大きな雪上車を始め、基地にあるあらゆる車輌を1年間縦横に動かし、保守・修理して過ごした。 いろいろな野外調査に、レクリエーションに、基地生活は車輌なしでは考えられない。彼は、8次隊での経験を基に、最も多くの車輌を最も自由に使用出来るよう努力した。 しかし、生活全体の問題として、機械関係の立場から見た場合、大便タンクの交換が一般に知られていなかった事が重要であったようだ。これは7次隊で作ったものだが、長期間使用していると、タンクの底に汚物が固まり取れなくなる。9次隊で一応交換することになっていたが、極点旅行などで忙しくてそのまま。そこで、使用を極端に規制することで10次隊に引き継いだ。夏の建設期間に約1週間かけてタンクを交換したが、もしこれをしなければ、ブリザードの時以外は海氷便所を使用するという、9次隊同様の苦しみを味わわなければならなかったそうだ。防臭剤として使用しているポリシンは新幹線でも使用しており、我々はこの面でも文化生活の最先端をいくことが出来た訳だ。 10次隊は、8月18日という最寒期まで水汲みを行ったが、その陰には、彼の異常なまでの車の整備への努力があった。 「もともと−20度くらいが限度と設計されているものを、−35度でも使用するというのだから無理な話だ。しかし、その結果貴重な資料が得られ、車輌改良の一助となったとすれば、我々は努力した甲斐があったと言える。」と、問題解決に当たっての現場におけるあり方を説明する。 6月12日に大陸沿岸で KC20 が2台クレバスにはまったが、「結果として、この事故が本旅行を成功させた大きな要因になった。」と言うあたり、“ある行動は、それが例え失敗であっても、次の段階の進歩の布石ならしめることが必要である。”ということを、彼の話の中に記者は感じた。 (I) |
隊員の仕事 ]]Y 装備 YAGI 学習院大学理学部物理学科卒。 主に、計測関係の勉強をした。例えば、タコメータ、ストロボスコープ(回転計の一種)などはお手のものである。 現職、日産ディーゼル設計部車輌実験課。 主に、大型車(バス、トラック等)に関する種々の実験を行っている。だから、彼は基地に来てから機械関係でも大いに助かっている。例えば、建設期間中の電気溶接、クレーン車の運転の大部分は彼がやったし、ブルドーザーの運転についても、機械担当がいない時は、一番先に指名された。内陸旅行でも、上田隊員と交替で KC20 に乗り、先導車としての役割を十分に果すなど、彼の技術は随所に発揮された。 しかし、彼は言う。「私は、正式には設営一般ですから、実は、生活一般の雑用を何でもしなければならない。しかし、それではあまりにも漠然とし過ぎる。だから、私は“生活改善”という点に絞って仕事をしました。」 確かに、彼が越冬開始後一番先にやった事は、第10居住棟通路の倉庫に棚を作り、日用文具その他装備一切を格納することであった。その後、映画フィルムのリスト作り、映写機2台を駆使しての切れ目なし上映の成功、3/4ton水汲み車の防寒用ホロ作り、移動用便カブ作りと、日常生活に必要な基礎的な仕事を、生来の几帳面さと器用さで立派にこなした。 「この1年、一体何をしたかよく判らないが、とにかく早く過ぎました。」という感想は、目に見えない雑用が多かったことを物語っているのであろう。 最後に、「内陸旅行は楽しかった。しかし、設営一般、特にコック担当の立場として、食事、睡眠など日常生活にケジメがつかないことで苦労した。」と、つらかった一面も述べてくれた。 (I) |
隊員の仕事 ]]Z 報道 KIMURA 彼の正式な職名はNHKニュースカメラマン。カメラを主体にした報道ということだ。 国内では、事件記者的性格で突発的なものの取材を主としている。しかし、基地では最初から予定を立ててカメラを構えたという。それでも、天気や人の都合で仲々うまくいかず、その上、精神的に何かをしなければならないという負担感が、1年を通じて存在したことで苦しんだようだ。 「最初は、目標をミッドウィンターに置いたが、途中で予定を変更した。やはり、本当の南極らしさは10月、11月の頃だ。」とのこと。1ヶ月に2〜3度報道原稿を作り、後はカメラチャンスを狙っていた訳だが、16mmは全部で 200本、1本2分30秒としても8時間以上になる。 「これが1時間くらいに収録されるのだから、私としてはかなり良いものが出来ると思う。」と、自信満々。例えば、ミッドウィンターだけで撮ったフィルムが4本もある。普通ならば、そんなシーンは1分くらいで充分なのだ。 「恐らく、私自身あの騒ぎの中に同化していたためと思う。それだけに、なおさら良いものが撮れたと思う。」とのこと。 さらに、「私は、この1年いろいろな面で非常に勉強になった。特に、真のニュースカメラは忍耐の一語に尽きる、と思うようになったことは収穫だった。」と、1年を振り返り、「私は、今までの報道マンが体験し得なかった極点旅行の迎え、内陸旅行への参加、ロケット打ち上げ、そして“ふじ”のビセット等を目の当たりに観察し経験した。これは報道カメラマンとして“ついていた”、“来て本当に良かった”と思う。」と、細い目をさらに細くして答えてくれた。 (I) |
隊員の仕事 ]][ 隊長 KUSUNOKI 昭和基地を後にするまでにこぎつけた現在、過ぎ去った1年について振り返ってもらった。「私も10次隊の一員で、いわば閉集合なのですから、第三者的見方は出来ません。でも、日本を出る時、8次の隊長に、『とうとうやったか10次隊、と言われないようにやってきます。』と言って来ましたが、大きな事故もなく過ぎ、本当にホッとしているところです。」とのこと。 仕事については、「少なくとも観測隊なのだから、観測の成果を上げなければ何を言っても意味はない。越冬報告などを見ると、観測上支障になるようなもめ事もなかったから、まずまず良かったのではないか。」と付け加えた。さらに、人間関係については、「皆かなり抑えていたのではないか。お互いの立場を理解し、スムースにいったと思う。その点では立派な大人だ。姑がいなかったのも大きい。設営を増やすことについては、2倍にしたから2倍の観測成果が上がる、と言うものでもない。極点では13:4だが、意外に冷たく対立している。境界領域をお互いがやることから調和が生まれ る。日本の現状がちょうど良いのではないか。」と、問題点を指摘してくれた。 「私は1年間を遊んで過ごした。昭和基地の機能の一つに、研究者の養成という問題がある。それには、現場の指導体制が必要だが、この点でゼミナール的なものをもっとやれば良かったと思っている。まあ、露語を最後までやったことは、私個人にとっても最大の収穫であったかもしれない。」と、ちょっぴりなつかしそう。 最後に、「やはり若いせいか、動くことの好きな人が多かった。10次隊は外部から見ると無色透明に見えるかもしれない。だから、なお良かったと私は思っている。」と、特徴を指摘してくれた。 (I) |