復刻 「新しい南極」
― 1975年新年連載ルポルタージュより ―
横川 和夫 (元共同通信社)
(0) プロローグ
(2)死を覚悟したサイプル基地離陸 追想 記者冥利の操縦席から見た南極大陸
(3)恐ろしい南極での事故、火災 追想 インターネット時代のジャーナリストとは
(4)南極基地にも女性軍が登場 追想 いつになる女性越冬隊長の出現
(5)南極のキュリー夫妻 追想 南極は夢とロマンの宝庫
(6)マクマード基地の人気者 追想 ケープタウンで心臓移植取材
(7)10年ぶりの犬ソリ大旅行 追想 マッキンリーに消えた植村直己さん
(8)1年に1回の南極カジノ 追想 南極点ではスリー・ハンドレッド・クラブ
(9)「死の谷」の恐怖 追想 「ルートが……」「2万フィート……」
(10)汚染されない南極を残すために 追想 南極観測に人生をかけた男
(11)北半球で絶滅したアザラシ 追想 時計の針とガラスの破片で人生決まる
(12)南極の火山 エレバスに挑戦する男 追想 時代の反逆児・オードリーズ先生
(13)南極点で地球最後の日を体験 追想 南極点基地の女医が乳がんに
(14)南極から撤去された小型原子炉 追想 射殺されたミセス・チッピー
(15)南極に夢描く日本人地質学者 追想 メモ帳に残された取材の裏側
(16)灯し続けよう平和の灯を 追想 南極よりも北極で資源の争奪戦
(番外)神秘の南極・露岩地帯をゆく 追想 どんな戦争でも起こしてはならぬ
(1975年共同通信社配信元旦記事)
(左欄が復刻記事、 右欄は35年を経た記事への追想文)
プロローグ
これから16回にわたって掲載するのは第10次隊に同行記者として参加した私が、昭和基地から帰国して5年後の1974 年、今度は南極の昭和基地とは正反対の位置にある米国マクマード基地とニュージランドのスコット基地に約5週間滞在したときにまとめたルポルタージュで、 地方新聞に連載されたものです。
それから既に36年たちました。しかし当時の新聞コピーを読み直していると、その時の光景がありありと思い出されてきま す。昭和基地とは南極点を隔てた反対側にあるマクマード基地に私が行けたのは、ひょんなことからでした。共同通信の外信部にいる栗原人雄記者がある日、外 国通信社が打ってきたニュースが印字された紙を持って深瀬和己社会部長のところにやって来て、こんなことを言ったのです。
「日本、アメリカ、ニュージランドの三カ国が地球の底に深い穴を掘っているという話が入ってきましたよ」
たまたま深瀬社会部長は、第3次と第7次の南極観測隊に二回も同行記者として参加、現在も南極OB会の広報委員長として南極観測に興味関心を持ち続けている人でした。
「地球の底に穴を掘っている」というおもしろい表現に動かされた深瀬社会部長は、たまたま近くにいた私に「どういうことか調べてみて」と指示してきたのです。
調べてみたらマクマード基地近くにあるドライバレーという露岩地帯で、三カ国の科学者が地球の生成史を調べるためボーリ ング調査をしていることがわかりました。9月ころだったと思います。その時期は、共同通信では元旦に付録として出す新年特別号の編集作業を始める時期で、 どんな企画を出すか編集委員室では頭を痛めていたのです。
地球の底で、三カ国の科学者が協力して地球の生成史を調べているーーこれこそ元旦、新年にふさわしい明るい話題で、絵に もなるということから、「どうやったら行けるか調べてほしい」という話になり、ついでに「お前が行ってみろ」ということで私が担当することになったのでし た。
調べてみると当時、南極観測を支配していたのはアメリカのNSF(米科学財団)で、NSFがオーケーすれば取材が可能だ ということが分かりました。米国大使館に日参し、大使館を通じてNSFに取材申請を出す。そのため取材の目的、狙い、いつからどこに行くかなどの申請書を 作成して、それを翻訳するという作業が始まりました。しばらくしてNSFから「マクマード基地に2週間の滞在を認める」という返事がきました。2週間では 短い。何とかならないだろうか。「日本極地研究振興会理事長の鳥居鉄也さんに頼めば、ニュージランドのスコット基地に行けるかもしれないぞ」という深瀬社 会部長のアドバイスで、鳥居さんを通じてニュージランドの南極条約局にも申請書を出したところ、「スコット基地にも3週間滞在してもよい」という返事が来 たのでした。
羽田を出発してニュージランドのクライストチャーチに向かったのは11月5日でした。今もそうですが、南極のマクマード基地にはクライストチャーチから車輪にそりを付けたジェット機のC130型機で6時間かかります。
クライストチャーチではニュージランドの南極条約局長に挨拶に行きました。そこでの大きな仕事は私が南極で撮った写真 フィルムと原稿をできるだけ早く日本に送るルートをつくることでした。今ならパソコンで原稿も写真も寸時に送ることは可能ですが、当時は航空機で運ぶしか 輸送手段はありません。私が帰国したのは12月22日ですから、帰国して原稿を書いたりしていては新年原稿としては間に合いません。ではどうしたか。私が マクマード基地で書いた原稿と撮った写真フィルムを事務局あてに送り、それを事務局のだれかがクライストチャーチ空港までもっていき、日本行きの飛行機に エイアカーゴ(航空荷物)として乗せてくれればよいのです。幸いなことに条約局にいた女性事務職員がその役を引き受けてくれたのでした。そしてマクマード 基地では広報担当官が私の原稿とフィルムを基地から飛行機に乗せ、クライストチャーチの条約局まで届けてくれることを了解して、無事、元旦号の紙面を私の 記事と写真で飾ることができたのです。
どんな記事と写真だったかは、機会があればご紹介したいと思います。
そして帰国した後、せっかく南極に行ったのだから、南極観測の現状を紹介する連載を書いたらどうかということになり、「新しい南極」は始まったのです。
(横川 和夫 2010年5月5日)
連載ルポ「新しい南極」 (1)
南極最小のサイプル基地訪問
まさに乳白色の世界
南極最小のサイプル基地を訪れる
人類に残された最後の大陸「南極」−。発見されてからわずか150年。探検の時代は終わり、科学調査もボーリング、ロ ケットを使ったりして多角的に動いている。領土権の主張を30年凍結して平和利用を定めた南極条約も発効後14年目にして根底から揺さぶられる事態に直面 している。
原因は条約で全く触れていない天然ガス、鉱物資源の発見が続いたためという。人類が最後の大陸「南極」で初めて実現し た「平和共存」だが、今後も角突き合せずにうまくやっていけるかどうか。記者は約5週間、米国マクマード基地と、ニュージランドのスコット基地を足場に、 ドライバレー、極点をはじめ日本人として初めてエルズワース山脈、サイプル基地を訪れた。「新しい南極」は大きく息づいていた。(横川和夫前共同特派員)
◎初の日本人
「サイプル基地へ連れて行ってやろう。出発はミッドナイトだ。お前はたぶんサイプル基地を見る最初の日本人だぞ」「ありがとう。夜中というのは何時ですか」
「午前零時きっかりだ」
南極マクマード基地のNSF(米科学財団)代表プリズナハム氏は無表情な顔でサイプル行きを知らせてくれた。
南極入り以来、何度も催促したが「荷物が重すぎる」『天候が悪い』と断られてきたサイプル基地への飛行である。
夏季に入った11月中旬。一番機が飛んだ。その後サイプル便は一カ月に三便だけだ。マクマード基地の飛行場にはサイプ ル行きの貨物が半月も放ったらかしになっている。超高層物理現象の観測に必要な共役点の関係から気象条件や輸送条件を無視して1973年に建設された新し い基地がサイプルだ。
しかも越冬隊員はわずか4人。米国にとっては1934年、バード少将がリトルアメリカで越冬して以来の小規模基地であ る。マクマード基地から2418キロ。東京から香港の距離。しかも積雪が多いうえ、パイロットの嫌いなホワイトアウト(白一色で何も見えない状態)が多発 するのでも有名だ。
午後11時。海氷上にある飛行場の受付で手続きをすませ、車輪にそりを付けた四発のC130貨物輸送機へ。機内の中央には直径3メートル、長さ10メートルもある巨大な石油タンクが固定されている。
デニス・オルソン機長(28)はすでに出発準備を完了した。
「お客はお前一人だ。操縦席にいていいよ」
真夜中の出発といっても太陽は輝いている。高度8000メートルの上空からは南極大陸の氷床が ”地の果て” まで続いていることしかわからない。ロス氷棚の巨大なクレパス、氷縁もレーダーでキャッチできるのがやっと。
◎天候悪化
「長い長い道のりだ。エルズワース山脈だけはよく見えるよ」と航行士のガイルさん(40)。午前4時過ぎ。はるか右手 前方にそのエルズワース山塊が姿を現した。山脈の長さは4000キロ。南極大陸での最高峰ビンソン山塊(4892メートル)も8000メートル上空からは 一握りの塊にすぎない。手のひらに乗りそうな感じだ。
「天候が悪くなってきた。視界ゼロに近いという情報だ。引き返すことになりそうだぞ」 オルソン機長は紙コップにコーヒーを入れたついでに耳元でささやいていく。
よく見るとエルズワース山脈は雲ひとつないが、サイプル基地のあるエルズワースランド一帯は綿雲で埋まっている。
ガイル航行士の顔が引き締まってきた。コンパス、分度器を使い天測暦で太陽の位置を確かめ、先のとがった鉛筆で現在地を地図に記入していく。広大な南極で針の先のようなサイプル基地。それを太陽の位置から探り当てる。考えただけでも気が遠くなってくる。
操縦席から見えたエルズワース山脈
◎強行着陸
「突っ込むぞ」
乗組員はベルトを締め直した。高度を下げて雲海の中へ。
「キーン」と耳が鳴る。180度展望のきいた窓は真っ白。心配になってくる。
レシーバーを耳に当てるとガイヤ航空士がレーダーを読んでいる。
「あと20マイル」「5マイル」「1マイル」
サイプル基地はもうすぐだ。視界はただ乳白色の世界。何も見えない。盲目飛行のようなものだ。
「ハーフマイル」
ハンドルを握っているフォックス副操縦士が足を突っ張らせた。
「危ない」
「ドーン」「ダ、ダ、ダ、ダ、ダっ」
シートベルトが体深く食い込んできて痛い。身体全体が前方に飛び出しそうな感じだ。機体が大きく三回、四回とバウンドしている。棚から何やら落ちて床に転がった。
「ザーッ」
金属そりの鈍い音。滑走を始めたのが分かる。依然として前窓の先は牛乳につかったみたい。障子紙でも張りめぐらしたよ うだ。白い霧なのか。それとも雪が降っているのだろうか。目をこらすと白いモヤのなかに、ほんのかすかに地平線が明るく蛍光灯のように浮き上がってきた。 こうした状況を ”土地っ子” はホワイトアウトと呼んでいる。機が止まった。モヤのなかに、アンテナの鉄塔が見える。人間も立っている。手を振っている。 「さあ、サイプルに着いたぞ。基地まで100メートル。20分後には飛び立つ。急いで行って来い。絶対に遅れるなよ」
「ありがとう」
扉が開いた。冷たい空気。サイプル基地に着いたのだ。
ホワイトアウトの中サイプル基地に到着したC130輸送機
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
連載ルポ「新しい南極」(2)
死を覚悟したサイプル基地離陸
8回目の滑走でやっと離陸
雪面の下に二重構造の基地
◎粉砂糖の雪に足をとられる
一歩踏み出したとたん、つまずいて転んだ。ひざまで潜る深い雪。右手で体を支える。つかんだ雪は粉砂糖のように指の間からサラサラこぼれ落ちる。
雪は枯れ果てたのか、降りもしない。しかし皮膚感覚は逆だ。ちょうど雪が降っているように、あたり全体はボーッとしている。キラキラ光る霧の中に降り立った感じなのだ。
「やあ、よく来たね。待っていたよ」
大柄なカッツフレークス博士(48)が近づいて、転んだ体をガッシリした手で引き起こしてくれた。マクマード基地で2週間、同じ宿舎で寝泊まりしたスタンフォード大学教授。サイプル基地の建設当初から毎年、基地に飛んできた総指揮官である。
出迎えてくれたカッフレークス博士
「君の案内はデールに頼んだからね。足元に気をつけなさい」 サングラスをかけたデール君が横で笑っていた。今年越冬するのは5人。彼はリサーチ・エンジニアである。
深い雪の中を転げ込むように足を運んで基地入り口にたどり着いた。入口といっても、木製の四角の煙突が雪面から1メー トルほど顔を出しているだけ。建設して3年半。もう基地全体が雪の下にすっぽり埋まってしまっている。1年の積雪量が平均1・5メートル。この新基地も4 年後に移転しないと、雪の圧力でつぶれる危険があるという。
木製木枠が積み重ねられた基地入り口。燃料の輸送ホースもここから
◎東西に21キロ、350本の鉄塔
油の輸送ホースが煙突の内側を通って下へ。大人1人がやっと通れるほどの四角の煙突内。壁に打ち込まれたコの字型の鉄 輪を伝って下りる。手すりは24個。雪の下は高さ7メートル、幅45メートル、長さ65メートルのかまぼこ型のアルミドーム状。その内側半分に四角い居住 棟が1棟。残り半分に枕のお化けのような巨大な燃料庫、ピロウタンク(2万5千ガロン)が二つ並んでいた。建物全体が二重構造なのだ。
アルミドームの下にある居住棟
巨大なピロウタンクが2つ並ぶ燃料倉
居住棟の中は6畳間ほどの談話室兼娯楽室、食堂、炊事場、2つの観測機械室。そして個室に分かれ、観測機械室は細長い電話交換台のよう。ここから発射される人工電波が磁力線を通って北半球のカナダまで飛んでいく。
6畳ほどの談話室兼娯楽室
電話交換台のような観測機械室
この基地の特色は、東西に21キロも張ってあるVLFアンテナである。これを支えるため60メートルおきに約350本の鉄塔が建っている。ところが1年に氷全体が4百メートルも動くので毎年、夏にアンテナの張りを緩めないとプッツリ切れてしまうのだ。
「今年も2人の技術者が来て張りを緩めています」とデール君。
地上に出るとコナリー整備士がしきりに手を振っていた。約束の20分が近づいている。カッツフレークス博士が別れぎわ肩をポンとたたいた。
「グッドラック」
◎粉のような雪面で離陸できず
飛行機のドアが閉じられ、エンジン音が一層大きくなる。午前5時50分。滑走を始めた。整備された空港ならば普通数分 もたたないうちに消えてなくなるソリと雪の摩擦音なのに、いつまでも消えない。途方もなく機体が前後に揺れ続けて、4発エンジンのフル回転ぶりは確かなの に機体が浮かない。ガイル航行士の顔がゆがむ。
「駄目だ」と整備士に言う。
いったん停止してUターン。再び滑走開始。今度は最初からエンジン全開だ。ものすごい音と振動。しかし重い石を引きずっているみたいだ。スプリングのきいたマットの上をドタドタ走っている感じで、スピードは一向に上がらない。
「雪が柔らかすぎて、40ノットしか出ない」とオルソン機長。離陸には90ノット必要というから半分以下。粉雪が舞って、窓は真っ白。ワイパーが左右に踊る。
「もう1回やろう」
レシーバーの機長の声が緊張している。とうとう4回目。
「カモン、カモン。ゴー」
いくら怒鳴ってみてもスピードは出ない。5キロも滑走したという。日本から遠く離れた地の果てでわが生命もアウトかと身の細る思い。克明にメモを付け続ける。
◎初めて使う噴射補助装置
「ジェイトーでやってみよう」
ジェイトーとは「ジェット噴射補助装置使用による離陸」の略語。飛行機胴体の両側面にガスボンベのようなジェット噴射 装置を4本づつ計8本取り付け、飛び立とうというのである。無線連絡で雪洞から噴射装置を掘り起こしてきた。オルソン機長はカバンからテキストブックを取 り出した。
機体の胴体にジェイトーを取り付ける乗組員たち
「さあ、出発だ。訓練でやったことはあるが本番は初めて。すまんがうしろに行っていてほしい」
ついに操縦席からも追放である。
午前7時3分。再びスタート。後部の石油タンクのそばにサイプルから乗った2人の若いアメリカ人が乗っていたが、このハプニングに生きた心地がしないらしい。
「機長がジェイトーを使うのは初めてなんだそうだ」と教えてやる。2人とも「ウエー」と言って肩をすくめた。
エンジンがうなりをあげる度に2人は目を閉じている。3回滑走したがダメ。そして最初から通算8回目。1時間45分後の午前7時25分。ジェイトーのごう音とともに機体は浮いた。
「いやー。実に冷や汗ものだった。最後の8回目にジェイトーのお世話になったんだがね、危うく、基地のアンテナに突っ込むところだったよ。サイプルはだからいやだよ」
オルソン機長は滴る額の汗をふいた。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
記者冥利の操縦席から見た南極大陸
南極最小の基地サイプルの存在を知ったのは、マクマード基地のかまぼこ型宿舎でカッツフレークス博士と一緒だったから だ。それから5週間、NSFのマクマード基地分室に出かけ、「サイプル便に乗せてほしい」と直訴し続けた。代表のプリズナム氏の回答はいつも同じだった。 「君の提出した申請書にサイプルは記載されていないから駄目だ」。
連日、同じような問答を繰り返し、2週間のマクマード滞在期限が切れ、山一つ隔てた隣りのニュージランドのスコット基地 に移ってからも顔を出し続けた。そして南極滞在期限が切れ、明日は帰国するという前日の夕方、プリズナム氏からスコット基地の所長に「サイプル便が夜中に 出発するので横川に分室にすぐ来るよう伝えてほしい」と電話がかかってきた。
操縦席から180度広がる白い南極大陸を眼下に見ながら飛ぶ醍醐味を味わったのは記者冥利に尽きる。白と紺碧の地平線が なんとなく丸くなっている感じがした。白い氷床上に黒豆のような斑点が無数に散らばっていた。「何だろう」と思って目を凝らしたら、雲の影だと分かった。
私が南極に興味を持ったのは中学生のころだった。父の本棚にあったバード少将の南極越冬記を読んで胸をわくわくさせた記 憶がある。商社マンだった父は野球、スキー、登山に興味を持ち、南極にも関心があったのだろう。終戦直後で、濁った色をしたザラ紙の本だった。航空機で北 極点到達を成し遂げたバード少将が、今度は飛行機で南極大陸の氷原にやってきて、雪洞を掘って一人越冬するという内容だったと思う。ローソクか炊事用の火 か定かでないが、雪洞のなかで一酸化炭素中毒にかかり意識もうろうとなっているところを救助隊に救出されるという話に夢中になった。その私が南極大陸の上 を飛んでいるのだと思うと胸が熱くなった。
20分という制限付きのサイプル基地訪問は、無我夢中で粉雪を全身でもがきながら漕ぎ、木箱を積み重ねた垂直のトンネルを伝って基地に降り、写真を撮って、雪上に出てくるのがやっとだった。
37年間の記者生活で死を覚悟したのは、サイプル基地離陸のときが最初で最後だ。
いまから考えると笑ってしまうが、もし墜落して私が死んだら、どうして墜落したかを書き残しておく必要があるととっさに 考えた。メモ帳に何時何分滑走開始といった状況を克明にメモしたのである。妻や子どもたちへの遺言を書くことに思いいたらなかったのはなぜだろう。墜落状 況はサイプル基地の人たちが目撃するはずだから、私のメモは意味がないことに気付かなかったのはお粗末と今になって思う。
だが、この離陸騒動で私は思いがけないチャンスに恵まれた。というのは何回も滑走を繰り返したため燃料を使いすぎ、サイプル基地とマクマード基地の中間点にある既に閉鎖されたバード基地に寄って給油することになったのだ。
燃料補給のため緊急着陸した旧バード基地
バード基地は1957年の国際地球観測年に南極点のアムンセン・スコット基地やマクマード基地とともに建設された。とこ ろが長年の積雪で基地が雪の下に埋まり、維持不可能になったため1973年に閉鎖された。それからは夏季だけ航空機の燃料補給基地として開設していたの だ。わが10次越冬隊の楠宏隊長が1966年に米国務省の招待でバード基地を訪問した時は基地として機能していた。ところが私が訪れた時のバード基地は雪 面に人間が二、三人入ったら一杯になるほどの小さな木造平屋建ての小屋とドラム缶が10数本置いてあるだけ。基地は雪に埋まり、荒涼とした雪の砂漠に降り 立った感じだ。
それにしても帰り際に単独越冬したアメリカの探検家、バード少将の名を冠した基地跡に足跡を残すことができたのは偶然とはいえ、貴重な体験だった。
(横川 和夫 2010年5月10日)
連載ルポ「新しい南極」(3)
恐ろしい南極での事故、火災
ミルヌイでは火災で8人が焼死
24時間見守り続ける消防署
◎繰り返される救助訓練
「スキー小屋まで救助訓練を見に行こう」一ニュージランド・スコット基地の食堂でメモの整理をしていたところ、広報担当官のニック・ラウンドターナー君が誘いをかけてきた。
スコット基地から小型雪上車で30分ほど行ったところにスキー小屋がある。4、500メートルの小高い丘は絶好のスロープ。毎日、夕食が終ると、スキー愛好家たちが深夜 まで白夜≠フ滑走を楽しむ。
スキー小屋から訓練に向かうキウィと乗組員たち
午前10時の風景。スキー小屋周辺には3つのテント。わきには小型の雪洞が。のぞくとマクマード基地の酒場でいつも夜遅くまで酒浸りのヘリコプター整備士ディックが鍋を雪で洗っていた。
「やあー、また会ったね。昨日から始めたが、慣れないことばかりでつらいよ」 暖房完備、栄養満点の米国・マクマード基地から訓練に狩り出されて、にわかに非常食による自炊生活。切り替えが身にこたえるらしい。
訓練生は全てアメリカ人で、南極の航空輸送を担当しているスクアドロン(Squadron)第6飛行大隊のパイロッ ト、整備士、航行士のほか医師のロバート・ボズウェルさんら計9人。一方、講師は全部ニュージランド人で、山岳救助隊員、ガイド、野外教育指導者などの肩 書を持つベテランばかり6人。野外教育指導者のパディ・フリーニ―さんのヤッケ、オーバーズボンは油やすすで真っ黒。貫禄充分だ。
◎氷河の先端をロープで登る
「今日のトレーニングはロープを使ってクレパスを上り下りすることだ。さあ出発だ」とフリーニーさん。だがアイゼンもつけたことのないアメリカ人たちはもたもたしている。
「彼らときたら、昨夜は午前2時までスキー小屋でワイ談ばかりしていたんだ」
左にエレバス火山。右は一面、ロス氷棚の大氷原がはてしなく続く。ぽっこり盛り上がった氷河の先端にクレバスが大きな口を開けている。
訓練場は氷河のクレバスが大きな口を開けていた
「どんなことがあっても絶対にピッケルは放すな。ロス氷棚のクレバスに落ちても、アザラシみたいに泳いで氷の穴を見つけて上がってこい。その時にもピッケルが必要だ」 高さ10メートルの氷河の先端をロープでよじ登るのだが、ディックの足はガタガタ震えている。転落したら、死なないまでも背中を硬い氷盤に打ちつけることは必至。
クレバスで救助訓練をするパイロットたち
救助訓練は1週間。3日間の雪上訓練のあと、ドライバレーに移って岩登り。そして仕上げは約6時間かけての山岳縦走である。
◎南極点には墜落航空機の残骸
「何でもないように見えても南極は危険がつきもの。いつ事故が起きてもよいように備えているのさ」とフリーニーさん。夏の間2ヶ月間、南極のどこかで救助訓練は繰り返される。
米国科学財団の資料によると、南極観測を始めた1946年からこれまでに南極で死亡した米人科学者・サポート隊員は計40人。4分の3の29人は航空機事故である。
事故で破損したヘリコプターは20機。航空機は30機にも上っている。南極点では1973年1月28日着陸に失敗して大破した貨物輸送機(C130)の残骸が雪に埋まっていた。
航空機事故だけでなく火災も南極では恐ろしい。乾燥しているうえ、肝心の水がない。 ブリザードの最中なら完全にお手上げだ。1960年8月3日。ソ連のミルヌイ基地で気象棟が全焼。8人の科学者が焼死した。時速203キロにも達するブリザード。消火作業はもちろん、人々は屋外に逃げることもできず、文字通り袋のねずみ≠ニなったのだ。
◎消防車の出動回数は4、50回
マクマード基地の中央に消防署がある。署員15人。うち7人は飛行場勤務。ガレージには750ガロンのタンクを付けた 大型消防車が1台。そして3000ポンドのドライケミカル車2台が待機。奥の天井には4000ガロン入りの大型タンクが備え付けてある。常駐消防士15人 の出身は海軍だが、24時間待機の特別勤務。
それだけに小屋内にはビリヤードの娯楽室、サウナ風呂、ボディービルなどの運動器具も完備、食事は台所で自炊。談話室は夜間には映画館となる。
署長のチーフ・ミニアチさん(36)は「これを見てくれ。これはマクマード基地の建物111棟の火災報知盤だ。火事の場合はベルが鳴る。建物には消火器が全部で771個置いてあるが、1ケ月で全部点検する仕掛けになっている」と自信たっぷりの表情。
夏期間のポンプ車出動回数は2年前が41回。昨年が57回。今年は12月中旬までに10回だった。いずれも電気系統の故障やストーブの過熱によるものだがボヤで消し止めている。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
インターネット時代のジャーナリストとは
この連載を書いてから35年がたつ。その間、私たちの日常生活で大きく変化したのはインターネットの普及だ。だれもが最 新の情報を瞬時に手に入れることが可能となった。 例えば「マクマード基地」で検索すると、たちどころに最近の状況を知ることができる。グーグルの「アースの旅」で検索するとマクマード基地の上空写真が出 てくる。巨大な石油タンクが4個もあり、一見すると川崎か千葉のコンビナートのようだ。越冬隊員は当時も今も100人前後と変わりないが、夏季の人口は当 時600人だったのが今は倍の1200人に膨れ上がっているという。
私が滞在した時の食堂は軍隊の兵舎を改造したような質素なものだったが、今は2、300人が一度に食べられるほど広い。 高級ホテルのレストランといった感じの豪華な雰囲気が漂っている写真も見ることができる。私が訪れたときにあった小さな教会は4年後の1978年に火災で 全焼した。89年に完成した新しい教会のステンドグラスは、焼け残ったものを使用していると書いてあり、そのステンドグラスの写真もインタ―ネットに載っ ている。
「知りたい」「○○について調べてみたい」という興味、関心、好奇心さえあれば、南極に行かなくても状況がある程度分か る時代なのだ。とすると記者の役割は何なのだろう。 インターネットで検索しても出てこないような内容の記事を書くことが求められる時代である。それ は専門性や識見に富み、その人でなければ書けない独自の意見、評論、ルポルタージュといったものだろう。その点、最近の新聞はほとんど似たような内容の記 事の羅列であり、読むに値する記事が少ない。広告収入がインターネットに追い抜かれ、朝日新聞が赤字を出したのも、新しい情報化時代に対応する記事、内容 の刷新を怠ったためだろう。その点、スポーツ紙は違う。テレビ中継で勝敗が分かっている野球やサッカーの試合でも、翌朝、駅の売店で買ってみようと思うの は、記事を書く記者の視点や焦点の当て方の違いを試合の流れを振り返りながら再確認できるからだ。日ごろの取材力や蓄積したものが記事に凝縮されていると 言ってよい。こうしたものを政治記事や経済記事に求めることができないのはなぜだろう。
ちょっと話は飛ぶが、日本の学校教育が記事内容の同一化に大きな影響を与えている一因だと私は思う。というのも私が文部 省(現文科省)を担当していた1970年初め、「一握りのエリートの育成が日本の高度経済成長のために必要だ」という要請を財界から受けた文部省は、子ど もの発達段階を無視して一挙に教育内容を高度化した教科書にレベルアップした。その結果、大半の児童生徒は、学習塾や家庭教師の手助けを受けなければ授業 が理解できなくなった。一握りのできる子以外は落ちこぼされてしまう状況を人為的に、故意につくったのが日本の教育行政である。
授業は難しく、しかも超スピードで進むから、多くの子どもたちは授業が理解できず、勉強が嫌いになる。学ぶ意欲は失せ る。しかしそれでも教師は学ばせなければならないからテスト、テストを繰り返し、競争させる。試験が終われば忘れてしまう。その繰り返しである。そのテス トも自分の意見を具体的に書かせることはしないから、考えたり、意見を構築する力が付かない。
学力低下と叫ばれているが、私に言わせれば、低下したといわれる学力は単なる「受験学力」である。経済協力開発機構 (OECD)の学習到達度調査(PISA)で成績が上がらないのは、できる子よりも落ちこぼされた子どもたちの数が極端に多いため平均値を下げているにす ぎない。一握りのエリートづくりの教育行政が学力低下を招いたのだ。しかも自民党の日教組対策に牛耳られた文部省は教師管理を強化した。そうして教師は教 育委員会―校長―教頭―学年主任という上意下達の構造に完全に組み込まれ、授業づくりに情熱を失い、一人ひとりの子どもの状況を無視して義務的に教科書を 教えることになってしまった。
その結果、テストでよい成績を上げることが学ぶことであり、一人ひとりの子どもが自分は何をしたいか、何に向いているの かを考えることをせず、偏差値で進路を決めさせられているのが現実である。内申書の評価を上げるために教師の目の色をうかがい、常に自分が周りからどう評 価されるかを気にして成長させられてきた。自分の視点、問題意識などを持つ余裕もゆとりもないまま、社会に押し出されてきているのが現状である。
そんな教育を受けた記者たちが大半だから、常に上司の目の色をうかがい、上司が気に入らない記事は書かない。読者からイチャモンやクレームがくるような 際どい問題は避ける、つまり当たり障りのない記事を書く記者が上司から歓迎され、評価される風潮が蔓延してしまったと言ってよい。新聞を開いても読みたい 記事になかなかお目にかかれない現実をどう変えていくのだろうか。
(横川 和夫 2010年5月17日)
連載ルポ「新しい南極」(4)
南極にも女性軍が進出
明るく華やぐ基地の雰囲気
最初は修道女の科学者で試す
◎そわそわと落ち着かない男たち
12月中旬の某日。ニュージランド・スコット基地の様子がどうもおかしい。いつもはよれよれの着古したセーター姿の ニューマン隊長(42)は水色のワイシャツ姿。郵便局長のキャンベルさんの薄い頭はポマードでギラギラ。おまけにワイシャツはピンクの縞模様ときた。コッ クのパーマー君はそわそわと落ち着かない。何度も味見をしては「うーん」と頭を振っている。
やがて、その理由がのみ込めた。
部屋を移ってくれないか。きょう、女性が来るのだよ」とニューマン隊長。
慌てて整理をしているうちにドカドカと靴音がした。ご到着である。床に下着やフィルムなどを散乱させているのに、彼女 は構わず入ってきた。二コリともしない。ここは自分の部屋だといわんばかり。まだ、こちらの荷物が残っているベッドの上にドカンとカバンと羽毛服を置く と、さっさと出て行った。声をかけたり、ウィンクする暇などありはしない。
◎ステレオレコードもムード調に
香水を漂わせてやって来たのは昨年に続きバード岬でペンギンの研究をするジョイ・ウッドさん。そして同じ岬で砂浜の堆積物とペンギンのふんの関係を研究するナイト氏(27)の夫人ジョーさん(21)。そして図書士のケイ・ミードさん(21)も一緒である。
それまで殺風景だった食堂の雰囲気がパッと明るくなった。ステレオレコードまで何やら色っぽさを増してムード調になってきたから不思議である。
南極と女性の関係はスコット基地だけではない。お隣りのマクマード基地に9人、ドライバレーのポニー湖の観測小屋にも3人の女性が研究などで従事している。
マクマード基地の食堂はバイキング方式
食堂には日本人の研究者たちの姿も見られた
◎南極男やもめも出現
つい先ごろまで氷とブリザード、酷寒、孤独、世界の果てといった南極のイメージは長い間、女性の来訪を拒否し続けてき た。1947年3月から48年2月まで越冬した2人の米国人探検家がそれぞれの妻(Edith Ronne と Jannie Darlington)を伴って南極半島で越冬するなど、過去にも女性の南極滞在史はある。しかしあくまで一時的なものだった。マクマード、スコット基地 に限ってしまえば、その歴史をひっくり返すほど、ここ数年間の女性の進出はすさまじい。
”進出パターン” は両基地とも共通。まず最初は夫君に伴われ科学者である。”夫婦共同研究” で地慣らしをして、問題がないと分かると次に独身の女性科学者が登場。そして現在科学者だけでなく、マクマード基地には炊事婦2人、秘書兼タイピスト2 人、婦人兵3人、スコット基地では図書士1人が活躍中だ。もちろん夏の間だけ。
マクマード基地の食堂で働く女性たち
「私の南極行きを真っ先に喜んでくれたのは、主人ですわ。だれも行けるところではないから行って来いと激励してくれました」と図書士のケイ・ミードさん(22)は1年前に結婚した主婦。”南極男やもめ” も出現する時代なのである。
◎寝室の会話は筒抜け
昨年はマクマード基地で初めて女性科学者2人が越冬した。記念アルバムを開くと、越冬隊12人のトップにお年は召して いるものの、にこやかな女性2人の笑顔が並んでいる。独身者だった。生物学者マリー・カフーンさんはカトリックの修道女でもあったという。 オリンピック 村のような女性専用の宿舎はない。部屋は別だが、一つの建物に男性軍と雑居する。二人一組の個室の仕切りは薄板一枚。パイプの走る天井は隙間だらけ。寝室 のいびきや会話は筒抜けだ。夫婦は当然一室が与えられるが、ダブルベッドはなく、規格品の二段ベッドが備えてある。とはいってもシャワーとトイレだけは がっちり例外だった。
「女性としてショッピングや料理作りが楽しめないのはつらいこと。でも、特に不自由は感じないわ。男性はみんな親切だし、私は国に帰ったら、真っ先にヘアドレッサーに飛び込むわ」−今年で2度のお勤めという婦人兵オ・コイヤー大尉の感想である。
◎日本、豪、ソ連は女性ゼロ
アメリカ、ニュージランドは進んでいるが、日本をはじめオーストラリア、ソ連などの大陸基地にはまだ女性は登場していない。行き帰りの長い船上生活が障害のようである。
「しかし、そうばかり言っていられない。われわれも目下検討中だ」とはギャロワ・オーストラリア南極局長の話だ。
この月の某日。ニュージランド新聞「クライストチャーチ・ザプレス」には次のような記事が載っていた。
「ソ連女性がスキーで南極横断旅行」。ソ連の女性グループ「雪あらし」は国際婦人年を記念して75年夏、南極大陸ボストーク基地から南極点までの500マイルのスキー横断旅行を計画中だ。参加人員など未定だが、この冬、北極海で訓練の予定。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
いつになる女性越冬隊長の出現
マクマードとスコット基地で女性と出会い、新鮮な感覚にとらわれて35年。アメリカやニュージランドに遅れはしたもの の、日本の昭和基地でも女性の進出は日常化している。 日本の南極観測隊に女性が参加するようになったのは昭和基地を開設してから30年後の29次夏隊 (1987−8年)からだ。そして10年後の39次隊(97−8年)で初めて2人の女性が越冬した。当時、大学院生だった2人は、女性初の越冬記「南極に 暮らす」(岩波書店刊)を書いている。
「39次隊の仲間は、日本に普通の女性がいると同じように、もしくは、女性なんてないかのように、特別視することなく、私たちを受け入れてくれたのです。いくら女性が溶け込もうとしても、それをはじき返されたら孤立するしかなかったでしょう」(東野陽子さん)
「帰国した後の質問でも『女性初の越冬はどうでしたか?』と聞かれます。何かを期待して質問する人には悪いなあと思うの ですが、私の正直な答えは、『ごく普通です。他の隊員と同じ南極越冬でした』というものでしかありません。(中略)それでも強いて女性が加わった感想をと いうならば、最初は女子風呂とトイレがまだできておらず、男性隊員に都合をつけてシェアしてもらっていたので、それが少し申し訳ないなと思ったことです。 これ以外では、ある程度の力仕事や日常生活のいくつかの場面で、男性隊員の方がちょっとした配慮をしてくれていたと思います。私自身が思い当たるのはせい ぜいこんなことです」(坂野井和代さん)。
このように2人は、越冬生活では特に問題もなく、楽しく過ごすことができたと記している。
それ以後はどうなっているのだろう。国立極地研究所の広報課に聞けば分かると思い電話をした。ところが女性職員からは 「こちらでは男女を特に区別していませんので、すぐにお応えできません」という返事。調べてもらったら29次から51次までの夏隊で18人、越冬隊は22 人の女性が参加していた。このほか同行者18人を含めると58人(いずれも延べ数)の女性が昭和基地を訪れているという。
さらにインターネットで調べてみたら、日本の南極観測50周年に当たる48次隊(2006-7年)では、同行者も入れる と7人の女性が参加している。一般公募で参加した造園技師をはじめ脳外科医、アウトドア用品メーカーの元社員といった具合に、仕事もさまざまだ。51次夏 隊(09−10年)には千葉県習志野市立小学校の女性教師(48)がいて、昭和基地と東京、大阪を結ぶ3元中継による南極からの授業を行った。
南極女性記者も誕生している。45次越冬隊(03―4年)と51次夏隊(09-10年)で2度も昭和基地を訪れた朝日新 聞記者、中山由美さんと、48次夏隊(06−7年)で同行した日刊スポーツ記者、小林千穂さんの2人だ。インターネットで原稿が送れる時代になり、中山さ んは「ホワイトメール」で460日、小林さんは「南極ウォッチング」というタイトルで121日、ブログを書き続けた。
そのブログを基に2人は本を書いている。日常生活での喜怒哀楽をおりまぜ、隊員のプライバシーに気を遣いながら南極生活 をブログで毎日伝え続ける苦労は大変だったようだ。乾燥のための肌荒れとアカギレ、日焼けに気を遣い、水不足で洗髪できず髪がべたつく不快感も記されてい る。それぞれの個性がほとばしる一節を抜き出してみよう。
「寒く長い極夜が開けて、白い水平線の向こうに茜色の太陽がのぞいたとき、涙が込み上げてきた。太陽の温もりが育む生命 を感じた瞬間だった。南極は、私たちが生きる星・地球を感じさせてくれる地だ。何億、何兆もの星々がきらめくこの宇宙で、水と大気と、日の光が生み出した 偶然に思いをはせれば、どんな小さな命もまぶしく見えてくる。何かにぶつかったときは、ちょっと立ち止まって振り返ってみればいい。ちっちゃなことでくよ くよするな! この地球に生まれたこと、出会えたことって、ものすごい確率なんだから!」=「こちら南極 ただいまマイナス60度」(中山由美著、草思社 刊)から=
「さて、一段落ついた午後、街へ出てみました。ギュルギュルしているおなかを落ち着かせようと向かった先は… 。世界の マクドナルドですよ。やっぱり! 乗船中、あれが食べたい、これが食べたいと話していた中で、『やっぱりマック食べたいよね〜』だったのです。越冬経験の ある隊員も、シドニー到着後に向かった先はマックだったそうです。ちなみにほかにも『今日はハンバーガーだ!』と意気込んで出かけた隊員もいました。 あー、満足、満足。でもマックもうれしかったんですが、名所の1つ、シドニータワーから、停泊中の『しらせ』を見たのが一番うれしかったかな。街に出ても 『しらせラブ』な感じです」=「南極、行っちゃいました。酷寒ほんわか日記」(小林千穂著、日刊スポーツ出版社刊)から=
ところで私が卒業した上智大学は、入学案内に「女子は入学できません」とうたった全国でもただ一つの大学だった。ところ が私が卒業した1960年春から正式に女子の入学を認めるようになり、女子学生のおかげで入学試験の偏差値が上がったと言われている。女子学生の大量入学 で大変だったのは女子トイレと体育の時間の着替え所の設置。階段の1階おきに男子トイレを女子トイレに改造した。昭和基地でも女性用トイレと風呂が増設さ れたことは言うまでもない。
新聞・通信社の採用試験でも昔は女子は滅多に採用されなかった。共同通信でも私が入社した1960年度は採用者38人の うち女性はたった1人。それも入社試験でトップの成績だったため落とせなかったという話だ。今でも女性記者の採用枠はあらかじめ設定されているといわれて いる。どこの社も1次試験で作文を書かせるが、優秀な作品はほとんどが女性である。採用枠を外せば、恐らく女性記者の数は逆転するに違いない。
「南極に暮らす」の「解説」(神沼克伊国立極地研究所教授=当時)によると1980年代にスコット基地で女性の越冬隊長 が登場している。アメリカの新聞社では女性の編集局長も出た。今や南極は初期の探検の時代は終わり、充分な備えさえあれば、だれでも行ける生活の場になっ た。南極観測の取材で女性を意識して取りあげた感覚そのものが時代に合わなくなったということだろう。だが日本の昭和基地で女性の越冬隊長が、また共同通 信で女性の編集局長が出現するまでにはまだまだ年月がかかりそうである。
(横川 和夫 2010年5月23日)
南極のキュリー夫妻
氷点下1・9度で生息する深海魚
35キロの魚から微量の血液採取
◎海氷の井戸底は暗黒の世界
米国・マクマード基地から南西6キロの海氷上に釣り小屋がある。8畳ほどの広さ。小屋の中央の海氷にぽっかり開けられた穴。直径1メートルだが、厚さ2メートルもある海氷はコバルト色の淡い光を放って実にきれいだ。井戸と同じだ。
穴の淵から奥をのぞくと暗黒の海が見えた。水温は氷点下1・9度。みるみるうちに海面はかき氷のような氷片で埋まって いく。天井にくくりつけられた滑車から太いワイヤが海中に下りている。鋭い直線。生物研究室で働くジェームス・ブラント君(24)は、ワイヤの先端にか かった魚のマウソニーを巻き揚げ、1匹は実験用に生物研究室へ運び、他は鑑札を付けて再び海へ放す仕事に日がな1日取り組んでいる。
マウソニーを海から釣り上げるブラント君
◎全長1・5メートルの魚のお化け
海の深さ500メートル。巻き揚げ機が動き始めて20分後にやっとマウソニーは氷穴からグロテスクな顔を出した。色は黒と灰色のまだら。全長1・5メートル。平均重量35キロ。大きいのは65キロもあるというから魚のお化けだ。
白い歯はのこぎりのようにギザギザとがる。直径4、5センチもあろうか。ヒトミだけでも2センチはある大きな目玉は開いたまま動かない。
口に食い込んだ太い釣り針を抜き取るのが一苦労。ブラント君の指図で、数日前にマクマード基地に到着したばかりの麻酔 学のウォーレン・ジッポさん(32)は、力いっぱい引っ張るがなかなか抜けない。気味悪そうに左手はズボンのポケットに突っ込んだまま。片手の親指と人差 し指をおずおずと動かすだけだから、抜けないのは当たり前。ついに見かねたブラント君が布切れに巻いた左手を魚の口に突っ込み、右手で釣り針を前後左右に 激しく動かした。直径1センチの穴が上あごにできた。この日、引き揚げたのは計7匹。6匹は体重、身長を測ったあと、腹ビレと尾ビレに鑑札を付けて放し、 1匹だけは棺桶のような木箱に入れて生物研究室の水槽へ。カリフォルニア大・スクリップス海洋研究所のデブリース博士(35)夫妻らに貴重な血液を提供す ることになるのである。
マウソニーは木の箱に入れられて生物研究室へ
◎不凍物質はグリコプロテイン
1年のほとんどは氷で覆われている南極海。海水温度は氷点下1・9度。カリフォルニアで採った魚を放したら、たちまち凍って白い腹を出して浮いたという。ところが南極海に生息するこのマウソニーは不思議にも凍らない。なぜだろうか。
「体内に不凍液のようなものがあるのではないかと考えて1年半。このマクマードで魚を釣っては血液を採取して分析、ついに不凍液を発見したんです」と、デブリース博士はナゾに答える。
博士にとって南極行きは今回で8回目。夫人のユアンさん(31)も3度目。中国系アメリカ人で広東生まれ。台湾大学を卒業後、米国に留学。ご主人は不凍剤の発見で、夫人はタンパク質の研究でそれぞれ博士号を獲得した ”南極キューリー夫妻” でもある。
不凍物質は一種のグリコプロテイン(糖タンパク)であることは突きとめたが、それがどのように作用して不凍剤の役目を果たすかなど、未知の部分が多い。
深海魚マウソニーから血液を採取するピンショウ夫妻
◎羽毛服の代わりに不凍剤を
生物研究室の直径3メートルの巨大な水槽に放たれたマウソニーの背ビレ付近には細いビニール管が挿入されている。真空ポンプを動かすと真っ赤な血液が注射器の中に溜まっていく。しかし35キロのマウソニーから採取できる量はわずか150グラム。
「今回はこの血液を大量に集めるとともに、この不凍剤が氷の中で生活する魚の体内でどのようにはたらいているかなどを中心に研究を進めている」と夫君は言う。
「もしも人工的にこの不凍剤をつくれたら、人間生活は大きく変わるでしょう。南極など酷寒地に行くときに2、3錠飲めば羽毛服などを着なくても凍死しないですむ。植物の品種改良に使えば冷害もなくなる」とユアンさん。2人の夢はSFの世界だ。
◎臓器移植に役立つ日も
世界の麻酔学会も大きな関心を寄せ、マクマードの生物研究室では、ジッポさんとコペンハーゲン大学のジャスパ・クイスト博士(32)の2人の麻酔学者が、マウソニーの血液を分けてもらい実験中だ。
血液を氷点下1・9度に保ちながら酸素や二酸化炭素を混合させて、そのメカニズムを探り出そうというのだ。
「これから臓器移植が盛んになるだろうが、その場合、臓器をいかに新鮮に保存しておくかが一番重要な問題だ。この研究が実れば臓器移植や麻酔手術も大きく変わるだろう」とジッポさん。南極深海魚の研究が人間生活を変える時代は目と鼻の先だ。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
南極は夢とロマンの宝庫
改めて35年前、私が37歳のときに書いた記事を読み直し、南極という世界はロマンに満ちていることを実感させられた。 氷点下1・9度の海でも凍らない深海魚マウソニー。その血液から不凍剤を抽出して錠剤にして飲むと、羽毛服も必要ないという発想そのものがユニークだ。面 白い。だれもが子どものときは突拍子もないことを考える。大人の目から見たら大したことでなくても、こだわり続ける。現実を直視すると経済的にも、時間的 にも、効率的にも無理なことは分かる。だが子どもの想像力、発想力はその現実を超越して広がっていく。それがロマンというものだろう。南極は、現実を超越 したロマンの世界への窓が大きく開かれている地球に残された最後の場所かもしれない。
日本の南極観測でも壮大なプログラムが進められてきた。昭和基地から1000キロも離れた高度3810メートルの「ドー ムふじ」と名付けられた基地で、氷床深層掘削が1994年から続けられてきた。07年1月23日には3028・5メートルから氷床を採取、ドリルは26日 には3035・22メートルの深さまで到達した。岩盤に近づくにつれ予想外の ”温水” に悩まされながらの作業だった。
北アルプスの槍ヶ岳(3180メートル)、南アルプスの北岳(3193メートル)の頂上からほぼふもと近くまで直径 13・3センチ、1升ビンより1回りも2回りも太い穴を垂直に掘り続けたのだからすごい。3000メートルも下だと氷床はざっと100万年前の氷だという から、ロマンをかきたてられる。
アフリカで見つかったホモ・サピエンスの頭骨の化石は16万年前。西アジアのクロマニオンの化石も10万年前。それよりはるか前のホモ・エレクトス(原人)が棲息していた100万年前の地球の状態を調べようという気が遠くなるような話なのだ。
国立極地研究所のサイトには、面白い調査結果が報告されている。
05年にドームふじで採取した氷床コアを分析したら、43・4万年前(深度2641メートル)と48・1万年前(深度 2691メートル)の2回、直径100メートルを超える地球とは別の始原的な天体が落下してきて砕け散った。溶融した粒子が東南極内陸域の氷上一帯に降り 注ぎ、氷に閉じ込められたというのである。百メートルもの巨大な火の玉の破片が飛び散ったのだから、アイスランドの噴火騒ぎどころではない。南半球全体が 灰で覆われ、暗黒の世界が続いたに違いない。
こうしたロマンをかきたてられる調査結果も、酷寒の中でボーリングし続けた観測隊員たちの地道な工夫と努力と作業のおかげである。
南極OB会のサイトで気になる記事が載っている。タイトルは「瀬戸際の氷床掘削技術」(会報8号)で、筆者は田中洋一さん(59)。36次、45次の越冬隊、47次、48次の夏隊に参加、氷床掘削に携わってきた日本で最初の「氷床掘削技術者」である。
田中さんによると日本が氷床掘削に取り組み始めたのは今から20年前。当時は氷床掘削のための装置も技術もなかった。先 進国グリーンランドに出かけて浅層掘削プロジェクト(深さ206メートル)を学び、ドリル本体をはじめウィンチ・ケーブル、ドリルタワー、モーター制御、 データ処理などの掘削装置の研究、開発製造をゼロから始めた。
最初、氷床掘削は研究者の片手間でできると考えていたが、それは間違いであることも分かった。酷寒の地である北海道・陸 別をはじめグリーンランド、南極などで試作機のテストを繰り返し、結果分析に改良を加え、本格的な掘削作業を始めたのが36次隊(94―6年)から。田中 さんもドームふじで越冬、最初は深度600メートルまで掘削することに成功した。
その後、ドームふじでの氷床掘削は2期目の45次隊(03−5年)から3シーズン続けられ、ドリルなどにも改良が加えら れ、今では掘削スピードも世界一。数時間で10メートル、1週間で100メートル、数か月で1000メートル掘り進むことが可能となり、各国から注目され るほどになった。
氷柱を引き上げた後の空洞は、周囲の圧力でつぶれないように氷と同じ密度の「酢酸ブチル」という液体を満たしていく。 「酢酸ブチル」はバナナのような甘い香りがして、キャンディやアイスクリームに果物の香りを付ける物質をつくる原料にも使われている。掘削作業は液体で満 たされた穴にドリルの先端を落としていく。ドリルの重さに任せて穴の底に沈んでいくのを待つ。穴の深さが3000メートルにもなると、底に着くまで2時 間、往復4時間もかかる気長な作業となる。「酢酸ブチル」の量は10メートルでドラム缶1本。3000メートルだから300本も昭和基地から雪上車で運ん だことになる。
掘削技術は進歩したが、肝心の氷床掘削計画は2期で終了したまま。3期の計画はいまだにないという。私が気になったのは、このままだと技術がすたれると危惧する田中さんの悲痛にも近い訴えだ。
=「07年1月26日の3035・22メートル到達は、しかし完全勝利とは言えない。我々は液体の水が存在する高い温度で、 しかも高い圧力の氷掘削に手を焼いた。今の技術レベルではこの新たな課題に答えることができない。しかも氷の下端は岩盤だという兆しがなかった。掘削技術 者としては、まだまだ挑戦すべき課題が残された結果なのである。(もちろん掘削実績と掘削システムは世界から高い評価を得ているのだが)技術は使わなけれ ば錆び付く。忘れる。すたれる。特に氷床掘削システムという、極めて細かい部分の積み重ねから成り立っていて、どの一部もおろそかにできない仕組みは、図 面や文書、映像などで残すだけでは不十分だ。文化財とは違う。むしろ芸能だ。システム自体の成り立ちを十分理解し、実際の掘削作業を通してその意味を会得 しなければ継承したことにならない。その上、現場の作業のノウハウはその場にいて身につける必要がある。そして継承のないところに改良はない。継承と改良 がなければ発展しない」=(会報8号から)
田中さんに電話してみた。
「他国は分析技術が進歩すればするほど、精緻な分析による新しいプロジェクトを立ち上げ、氷床掘削を続けています。とこ ろが残念なことに日本の研究者には新しい発想や豊かな想像力をはたらかせて、他国が思いもつかないようなプロジェクトを生み出す力が欠けているように思い ます」
.ゼロから立ち上げ、世界的レベルにまで達した氷床掘削技術は、このまま消えていくのだろうか。
「実は中国は09年2月に中国では3番目の南極観測基地である『崑崙(こんろん)基地』を内陸最高点のドーム A(4093メートル)から西南7キロの地点(4087メートル)に開設しました。南極では一番高い所にある基地になったわけですが、そこで来シーズン (11−12年)から3500メートルという世界一深い氷床掘削を行う計画が進行中です。ところがその技術が中国にはありません。そこでどうするか。日本 の私たちが開発した技術に着目して協力を求めてきています。もたもたしていると中国にも氷床掘削で追い抜かれる時代が来ないとも限りませんね」
これまでの氷床掘削では04年12月にドームCでEUが3300メートル底から採取した80万年前の氷床が最古のものと されている。中国が目指す3500メートルの氷床は100万年前。南極観測でも中国の躍進ぶりは目覚ましいものがある。氷床深層掘削技術の継承だけでな く、日本の頭脳の未来が危ぶまれているのだ。
新自由主義経済と称する競争至上主義の風潮が世界を支配し、利益と効率を最優先させた結果、使い捨ての非正規雇用者が増 え、技術の伝承などがおろそかになっている。人間の間に格差を広げ、学校教育も競争させて学ばせることが当たり前になった。その結果、大人たちは子どもた ちが夢やロマンを育むのを見守る余裕をなくしている。子どもたちを追いやる学習塾や進学塾で教え込まれるのは単なる受験テクニックで、試験が終われば忘れ てしまう身に付かない学力であることさえも親たちは気付いていない。
そんな時代だからこそ、ロマンを広げる壮大なプロジェクトが必要である。少ない予算をどう振り分けるか、取捨選択の英断が一層問われることになる。
私が書いた「新しい南極」を読み直し、物足りなさを感じている。今の私だったら深海魚マウソニーの血液からの不凍剤づく りに取り組むデブリース博士夫妻の人間像をもっと浮き彫りにしただろう。あらゆる角度から質問し、いろいろと話を聞き出したに違いない。血液中に不凍剤の ようなものがあるという発想は何がきっかけで出てきたのか、どんな父親、母親に育てられ、どんな幼少期を過ごし、学校教育では何に興味を抱き、どんなこと をしてきたのか。今の研究に道を開くきっかけは。恩師という人はいるのだろうか。ロマンの発想の原点、核心にもっと迫りたい気がしてきた。
(横川 和夫 2010年5月30日)
連載ルポ「新しい南極」(6)
マクマード基地の人気者
3か月絶食を続ける皇帝ペンギン
ブリザードにも耐える羽の保温力
◎生物研究室で刺身パーティー
「私の名前はハナコ。よろしくね」―相手が日本人だと分かると必ず「コ」を付けて自己紹介するのはハナ・ピンショウ夫人(27)である。マクマード基地の生物研究室にいる2人組の夫婦研究者のもう一方だ。今回で2回目の南極入りだ。
小柄だが、ブリジッド・バルドーとソフィア・ローレンを混ぜ合わせたようなかわいい顔。豊かな胸。キュッとくびれたウェスト。そしてだれとも気軽に付き合い、愛嬌をふりまくのでマクマード基地の人気者であった。
生物研究室ではときどき「刺身パーティー」を開く。2年前の夏、日本人科学者が日本の醤油とワサビを提供して「刺身」 を紹介したところ、すっかり気に入ったのがハナコである。今年も地球化学研究室に西山孝さん(35)=京大助手=と加藤喜久雄さん(35)=名大助手=の 2人が到着したことを知ると、「刺身パーティーを開きます。醤油とワサビを持ってきて」という「招待状」が届いた。
釣り小屋でエサ釣りを手伝う西山孝、加藤喜久雄さん
◎醤油ビンを胸に抱きしめる
刺身パーティーの日。練ったワサビを入れた皿はバクテリアの培養皿。魚のお化けマウソニーは白身の刺身となった。タイ のようなシコシコした歯ざわりと、マグロの脂っこさがミックスされて極上。参加者は14、5人。たちまち2皿に盛り上げたマウソニーを胃袋に落とし込ん だ。
「あんなでかい魚なんだから、なんでもっと作らないのかな」と西山さん。「料理したのはユアン・デブリース夫人よ。彼女は中国人だから魚のほおの部分以外はみな捨てちゃったのよ」というハナコの説明に「もったいない」と西山さんら日本人は嘆いた。
ところがハナコのほうは培養皿を放さない。ワサビの混じった醤油を指先できれいになめ「ベリーグッド」を連発。「この醤油とワサビは私が預かるわ」と醤油ビンを胸に抱きしめた。
ご主人のベリーさん(31)はカリフォルニア州デューク大動物学部の大学院生。生まれは南アメリカ・ヨハネスブルグ。 ハナ夫人は両親が英国船でイスラエルに脱出中、船内で生まれた。2人ともイスラエル人だ。3年前、テルアビブの小学校でヘブライ語の先生をしていたハナ夫 人はベリーさんと知り合い結婚、米国に留学した。
皇帝ペンギンにエサを与えるピンショウ夫妻
◎酷寒の絶食が研究テーマ
2人の研究テーマは「皇帝ペンギンの低温における新陳代謝」という。
皇帝ペンギンの生活は神秘に満ちている。小柄なアデリー・ペンギンなどと違って、ヒナをかえすのは6、7、8月の南極では最も寒い厳冬期。
冬に入ると、80−130キロ近くも張り出した海氷上をヨチヨチ歩いて、自分たちの巣に帰ってくる。メスは産卵する と、ヒナのえさを求めて再び氷縁へ。オスはメスの帰るまでの約3ヵ月間、氷の上で自分の足の上に卵をのせて温める。氷点下4、50度。ブリザードが吹きす さんでも平気。皇帝ペンギンは約3ヵ月間絶食を続ける。
この間、メスは最低160キロ、東京―清水間を歩くわけだ。酷寒の絶食―動物学者にとってこれほど興味をそそるテーマはない。
ピンショウ夫妻は皇帝ペンギンを冷凍庫に入れ、気温の変化に伴って酸素の消費量と炭酸ガスの排出量がどう変化するかを調べ、新陳代謝、そして環境の変化に対する順応性の手掛かりをつかもうと励むわけだ。
◎えさは1日150匹の魚
ピンショウ夫妻が飼っているのは4羽の皇帝ペンギン。毎日1羽が、おしりと羽の下に体温計を差し込まれたうえ、酸素消 費量と炭酸ガス排出量を計るためにプラスチックチューブのマスクをすっぽり頭からかぶせられる。そして朝6時半から8時間、体温や酸素消費量を自動的に記 録、コンピュータにかけて分析しようというのだ。
「ご覧なさい。いま外気温は氷点下24・5度なのに皇帝ペンギンの皮膚温度は摂氏26・5度。外気温と体温の差はなん と62・3度。これを皇帝ペンギンは羽1枚で調節している。しかも他の鳥の羽は産毛と1枚の翅の二重構造になっているのに、皇帝ペンギンは1枚だけなの よ」とハナ夫人。皇帝ペンギンの羽の保温力は大変なものだと納得する。
実験が終わると皇帝ペンギンは小屋に戻され昼食と夜食、翌日は3食のごほうびをいただける仕組みだ。1食は魚30匹。 水の中でしか食べたことのない皇帝ペンギンに、地上で魚を飲みこませるのも一苦労ならば、1日に必要な150匹の魚を釣るのも骨の折れる仕事。魚釣りは毎 夕食後の7時から。魚釣りの面白さと、ハナ夫人見たさも手伝って魚釣り行きのトラックは、米兵や科学者たちで満員の盛況だった。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
ケープタウンで心臓移植取材
「ふじ」を訪れたブレイバーグさん
前回の「新しい南極」の最後は、深海魚マウソニーの血液に潜む不凍剤について麻酔学者も関心を寄せ、「この研究が実れば臓器移植や麻酔手術も大きく変わるだろう」と語っていると結んだ。その臓器移植に関連してぜひ書いておきたいことがある。
私が10次隊の同行記者として砕氷艦「ふじ」で昭和基地に向かった1968年11月の3か月前の夏。札幌では札幌医大の和田寿郎教授(当時46)による日本初の心臓移植が行われた。私も東京から応援取材に参加、それがきっかけで臓器移植に関心を持つようになった。
◆南アに世界で3番目の心臓移植患者
当時の「ふじ」は帰路、南アフリカのケープタウに寄港していた。まだアパルトヘイトが存続していたころだ。私もレストラ ンで「チェンジ、ユア、シート」と有色人種扱いされた苦い体験がある。そのケープタウンには1967年12月に世界で最初の心臓移植を行ったバーナード博 士が勤務するグローテ・シューア(Groote Schuur)病院があった。またバーナード博士から68年1月に移植手術を受けた2人目、世界では3人目となる移植患者のブレイバーグさん(当時59) が、移植手術後1年余も生き続け、最長生存記録を更新していた。
日本を出発したとき、ケープタウンでバーナード博士とブレイバークさんの2人に会ってインタビューしたいとひそかに考え ていた。会えても医学用語などを英語で理解できないと無駄になる。そこで「ふじ」乗組員の医務長、菅井健治二等海佐と歯科医、石黒晃次郎二等海佐に計画を 打ち明けた。2人とも「それは面白い。ぜひ一緒に行きましょう」と乗り気になった。スキュール病院にタクシーで行き、バーナード博士の部屋を訪ねたら女性 秘書が「先生は海外出張中です」とそっけない。帰国は「ふじ」が出港した後だという。
◆本を買ってくるなら会う
「ふじ」の甲板に設置された臨時電話の下にあった電話帳で、ブレイバーグさんの文字を見つけ電話した。「私は取材料をい ただいているが、あなたは遠い南極から来たからタダでよい。その代わり書店で私の書いた本『私の心臓を見つめて』を買って持ってくるなら会いましょう」と いう。菅井、石黒二等海佐とともに本を買い、タクシーで高速道路を30分、飛ばした。郊外にあるブレイバーグさんの家は緑に囲まれた6階建のマンション2 階だった。3月15日のことだ。昼寝中だったブレイバーグさんはナイトガウン姿で応接間に通してくれた。夫人のアイリンさん、一人娘のジニーさん(21) も一緒に座った。
日本人形を手にご満悦のブレイバーグさん家族
最初は「私のところに全世界から手紙が来たが、来ないのは私の生まれた国イスラエルと日本だけだ」などと口が固かった。 しかし菅井二等海佐が日本人形をお土産に渡すと機嫌を直し「私は歯医者で若い時は奴隷のように働き、年をとって気が付いたときには心筋梗塞で横になったり の生活。しかし心臓移植のおかげで近頃は新しい医学論文に目を通したり、レコードを聴いたり、いい絵を見たりして生活を楽しめるようになった」と語り、同 じ歯科医の石黒二等海佐と意気投合した。
他人の心臓を譲り受けると、人間の体は異物を追い出そうと拒否反応を起こす。その拒否反応を抑えるために、さまざまな薬 を飲み続けなければならない。まさに拒否反応をいかに克服するかが心臓移植のカギでもある。ブレイバーグさんも例外ではない。その大変さを詳しく明かして くれた。
◆拒否反応予防薬でキスも厳禁
心臓移植を受けて5ヶ月後には血清肝炎にかかり、全身真っ黄色になり初めて危篤状態になった。そのとき西独から送られて きた抗リンパ球血清の投与で危機を乗り越えた。現在、月曜と金曜日の2回、自分で車を15分ほど運転してスキュール病院に行き、心電図などの機能検査を受 ける。問題は拒否反応を防ぐため4種類の薬を飲み続けなければならないことだ。毎日コーチゾンを25ミリグラム、イムランを150ミリグラム、ジキタリス を0・25ミリグラム、コーチゾンを1週間に1度100ミリグラムに増やす、という。
話の途中でポケットから手帳を出し、鉛筆でチェックしながら「飲むたびに消していかないと何をどれだけ飲んだか忘れてし まう」と笑った。そばに座っていたアイリン夫人が「バーナード博士から夫へのキスを禁じられていますよ」と口をはさむ。拒否反応の予防薬を飲み続けると、 免疫性がなくなるため、細菌に対しては細心の注意を払わなければならないのだ。
菅井、石黒二等海佐とお茶するブレイバーグさん家族(2度目の訪問)
「でも私は心臓が悪くて死んだも同然の人間だった。だから、今から5日後に死んでも満足だし、長く生き延びればそれだけ満足です。心臓移植は、医師がするべきだと判断したらぜひやるべきです」と話を結んだ。
◆1年7カ月半の最長記録
最後に「ふじ」で4日後には関係者を招いてパーティーを開くという話をすると「ぜひ行きたい」という。そして19日の夕 方。夫人のアイリンさんと共にバーナードさんはカーキ色の背広姿で「ふじ」を訪ねてきた。乗組員がつくったすしや焼き鳥を食べた。歯科医だったブレイバー グさんは「ふじ」の歯科治療室を訪れ、日本製の治療器具に関心を示し、治療台に座ると大きな口を開けた。そして石黒二等海佐に「日本人の歯科医に私の歯を 診てもらうのは名誉なことだ」と言った。
松島艦長の出迎えを受けるブレイバーグさん
艦長室では松島艦長が心臓の形をした南極の石をプレゼント。「この石のように強く生きてください」と言うと「桜の花が咲くころに日本に行きたい」と答えていた。
ブレイバーグさんを案内する松島艦長
それから5ヶ月後の8月17日夜。ブレイバーグさんは亡くなった。
ケープタウン発のAP電は「スキュール病院筋はブレイバーグさんの細胞組織は拒否反応を抑制するために大量に注射した コーチゾンの副作用の結果、広範囲にわたって退化していた」と語った。心臓は3分の1しか機能しておらず、腎臓も障害を起こしていたという」と伝えてい た。心臓移植後1年7カ月半の、当時としては最長記録だった。
.そんな取材体験をした私にとって、「マウソニーの血液に潜む不凍剤の研究が、臓器移植を大きく変えるかもしれない」という麻酔学者の話は、心臓移植を受けたブレイバーグさんの拒否反応と結びつき、壮大なロマンにつながる話と受け止めたのだった。
◆片手間で済まなくなった復刻版
気楽にやるつもりで復刻「新しい南極」を始めて6週目。開始してみたら片手間では済まなくなってきた。記憶を呼び戻しな がらの作業だ。書くからには正確を期さねばならない。そこで部屋の片隅に山積みになっていた段ボール箱を開けた。引っ越して4年目。捨てなければと思いな がら35年間も捨てきれず放置したままの資料。次から次と箱を開けて、中をひっくり返していたら出てきた、出てきた。10次隊で昭和基地に行ったときに 撮ったさまざまな写真。F16に帰還した極点旅行の村山隊の雪上車をヘリコプターから撮った写真も懐かしい。そして日記、新聞の黄色くなった切り抜きもあ る。茶色に変色した横長のスクラップブック。二つ折りになっていたのを元に戻し、開いたら、「新しい南極」に使用した35ミリカラーフィルムのべた焼きが セロテープで張ってあった。色あせているが、何とか分かる。ブログの記事に併用していた写真は新聞のコピーをデジタルカメラで複写したものだ。当時の新聞 の写真は白黒で、カラーフィルムから白黒に焼き直している。だからボーっとしている。早速、べた焼きの1こまをデジタルカメラの接写で撮り、パソコンに移 してみた。白黒のコピー写真より鮮明である。というわけで、編集の林幹治さんに送って差し替えてもらった。インターネットの時代だからできる芸当。パソコ ンとデジタルカメラのおかげで、瞬時にそうした切り替えが可能なのである。他人にとってはガラクタにすぎない資料がこんなところでまさか役立つとは。ます ます捨てられなくなる。
(横川 和夫 2010年6月6日)
連載ルポ「新しい南極」(7)
10年ぶりの犬ソリ大旅行
昔によみがえったスコット基地
飼い続ける17頭のエスキモー犬
英国基地の双発中型飛行機「ツイン・オタ―」を迎えるため、マクマード基地の国際飛行場はざわついた。ロス氷棚の調査 に協力するため、パーマー半島にあるアデレイド(Adelaide)島の英国基地からはるばる飛んできた英国機。スコット基地からも12人の「キーウィ」 たちが出迎えた。
アデレード島の英国基地から飛んできたツイン・オター
◎英国基地から来た2頭の犬
キーウィーはニュージランド人の愛称。アメリカ人が真っ赤な羽毛服に統一されているのに比べ、キーウィーたちは色とりどり。青いズボンにオレンジ色のヤッケ、黄色のセーターなど。だが、みな申し合せたように毛糸のタコ帽子をかぶっている。
何回も旋回を繰り返した後、英国機は着陸した。「ワーッ」とキーウィーたちは声をあげて氷の上を駆けていく。目指すは2頭の犬であった。
スコット基地には17頭のエスキモー犬がいる。17年前、探検隊が連れて来たのだが、3つの家系は次第に衰え、最近は 血族結婚を繰り返す。オスのリーは兄妹であるパスカとオスカの間に生まれた子というように。その結果、盲目、ピンクノーズ、アゴの不接合など劣勢遺伝が現 れ始めた。
「たまたま英国基地から飛行機がやってくるというので、米国のハレット基地を通じて頼んだところ、2頭が来ることになったのです」と、飼育係のスティーブン君(25)は目を輝かせている。
キーウィたちに迎えられるアンセとスチュワート
◎歴史、文化を大切にしたい
その2頭は狭い飛行機の床の上にへばりついていた。メスのアンセは黒。オスのスチュワートは白と黒の斑点。キーウィー たちは新しい花嫁、花婿を前にお祭り騒ぎを演じたが、対照的に2頭はおびえきってしっぽを巻く。わざわざクライストチャーチからやってきたというちょび髭 の獣医、マーシャル先生(31)は2頭の口を開け「うーん、いい具合だ」と、頭を軽くたたいた。
スチュワートのアゴをなでるマーシャル先生
まだ雪上車がなかった昔、南極の唯一の輸送手段は犬ソリが中心だった。史上初の南極点到達をめぐってポニー(子馬)に 頼ったスコット隊が犬ソリ隊のアムンセン隊に負け、挙句の果てに凍死してしまった。しかし輸送手段が近代化し、発達した南極における犬ソリの役割はいった い何なのだろうか。「確かに犬ソリは雪上車などに比べて手間がかかる。しかし歴史、伝統を大切にしたい。またエスキモー犬の生態を研究することも動物学 上、必要なことだ」とスティーブン君から明快な回答が返ってきた。
伝統、経験―犬ソリの隊列の組み方ひとつとっても一朝一夕でできるものではない。昭和基地では第一次越冬隊が19頭の樺太犬を使ったが、収容できずに15頭を放置、タロとジロの2頭だけが三次隊に発見されたのは有名な話だ。
◎目をは放すと暴れ、噛みつく
歴史の重みを感じたのはスティーブン君が見せてくれたドッグカードである。12月初めマーシャル先生は盲犬など3頭を解剖した。そのうちの1頭「スティーブン」のドッグカードには次のようなことが記録してあった。
〔名前〕スティーブン〔誕生日付〕不明〔誕生地〕スコット基地〔性〕オス〔種父、母〕不明〔医学記録〕71年8月の訓 練で衰弱。原因不明。マクマード基地の医師の診断では何も異常は認められず。強いて言えばビタミン欠乏症の疑いあり。先天的病気が進行しているかもしれな い。数週間の休養後回復。注=もし再発するようなら「殺」の要あり73,74年、衰弱著しく、呼吸器系の病気の疑いあり。
〔特色〕後ろでよく引く。子はつくらないほうがよい。短期旅行だけ可能。73年=スティーブンは行儀が悪く、怠け者、 全くのバカである。人間が近くにいるとおとなしいが、目を放すと暴れ、他の犬とけんか、噛みつき闘う。犬ソリでは特に監視の要あり。メス犬「レディー」の 傍ではよく走る。
〔旅行記録〕70年=トレーニング旅行。オズマンチームの2番目。72年=略。74年=短期旅行のみ。
そしてマーシャル先生の解剖結果で、スティーブンの心臓が極度に肥大していることが分かったのである。
スコット基地に保管されているドッグカード
◎調査旅行に犬ソリで出発
それから2週間後。スコット基地にとっては歴史的な日を迎えたのである。
10年ぶりの員ソリ大旅行に出発する犬ソリ隊、後方はスコット基地
ロス氷棚のクラリイ・アイス・ライズの南で発見された岩屑(せつ)の起源と性格を探る調査旅行にこの犬ソリを使用することが急きょ決定、出発の日を迎えたのである。全行程160キロ。10年ぶりの犬ソリ大旅行だ。
午前7時。スコット基地を出発した11頭の犬ソリは国際空港へ。先頭は利口なメス犬クララ。そして後に2頭づつ並んで 10頭が続く。アンセとスチュアートはしんがりだ。「ルルルルッ、ラ」とスティーブン君が舌を回転させると、「左へ」の合図。「クーウェイ」は右。「ウェ イト、ウェイト」は「それ引け」−。
11頭はC130貨物輸送機に乗せられてロス氷棚へ
11頭はC130貨物輸送機に乗せられるとロス氷棚へ向かって行った。「昔によみがえったスコット基地」―広報担当官ニックが打電した原稿の見出しにはそう書いてあった。
10年ぶりの員ソリ大旅行に出発する犬ソリ隊
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
マッキンリーに消えた植村直己さん
南極の犬ソリ単独行の夢捨てきれず
スコット基地での犬ソリの記事を読むと、どうしても書かずにいられないのは北米の最高峰マッキンリーの厳冬期単独登頂に 成功後、消息を絶った冒険家、植村直己さんのことだ。1941年生まれの彼は25歳から4年間でモンブラン(ヨーロッパ)、キリマンジャロ(アフリカ)、 アコンカグア(南米)、エベレスト(アジア)、マッキンリー(北米)と、世界初の5大陸最高峰の登頂を次々に成し遂げた。
次は犬ソリでの南極大陸最高峰ビンソン・マシフ(5140メートル)登頂と南極点到達に狙いを定めた。そのためにグリー ンランドのイヌイットの村に住み込み、共に生活しながら犬ソリ操縦技術を学び、トレーニングのつもりで北極圏1万2千キロ旅行と初の北極点到達単独行を達 成した。未知の冒険のためには徹底的に基礎から学び、鍛え直し、完璧なまでに準備をする習性を身につけた男なのだ。彼は明治大学の山岳部でしごかれた。新 人合宿ではすぐばてて転ぶので「どんぐり」というニックネームがついた。農学部へは名前と受験番号だけ書いて合格したという話で、コンプレックスのためか 何事も消極的だったという。しかしそのような人間でも夢と希望、そして強固な意志さえあれば他人が真似できないこと、つまり自己の存在意義を立証できるこ とを示してくれたと私は受け止めている。思えば、あれから32年もたった。
◆「新しい南極」で質問攻め
私が取材で彼に会ったのは犬ソリによる北極点単独行を終えた年の1978年暮れだったと思う。毎年、共同通信社会部は 12月末に、その年にニュースとなった人物のその後を取り上げる企画を出稿していた。植村さんを担当することになった私は取材を申し込んだ。ところが彼は 全国各地を講演で飛び回っていて、インタビューに応じる時間がないという。交渉の末、滋賀県大津市での講演後、東京に帰る新幹線の車中で取材することに なった。初めて会った植村さんは予想に反して飾らない、腰の低い、誠実な人で、私の質問にも丁寧に応えてくれた。相手の気持ちを読みとることができる人 だった。
私は彼の興味を引くかも知れないと思い、今回復刻中の「新しい南極」のコピーを植村さんに渡した。おかげで取材の後は東 京に着くまで植村さんから南極について逆に質問攻めにあったのを覚えている。航空機による支援が必要なら、全米科学財団(NSF)にはたらきかけることが 大切だとアドバイスしたように思う。
◆誠実さいっぱいの冒険野郎
新幹線が東京に着き、2人でホーム階段を降りかけたら、「あっ。大変だ、横川さんから頂いたコピーを新幹線に置き忘れま した」と植村さんが叫んだ。「コピーならありますから、自宅にお送りしますよ」と言ったが、彼は急いで階段を駆け上がり、座席のポケットに置き忘れたコ ピーを取ってきたのである。普通なら「じゃあ、お願いします」と言えば済むのに、わざわざ引き返して、忘れたコピーを取ってくる誠実さに私は「この人に頼 まれたら断ることはできないな」という気持ちにさせられた。冒険野郎というイメージはなく、純粋さに満ちた本当に優しい「青年」だった。
◆子犬だったときのタロ・ジロの写真
当時、取材のために読んだ「北極圏1万2000キロ」を今回改めて読み直し、犬ソリによる単独行がいかに大変なものかを改めて再認識させられた。
このサイトの回想ブログに、わが10次越冬隊の安藤久男さんが書いた「南極観測開始前の犬ソリ訓練」が載っている。北大の極地研究グループの一員として、日本の南極観測隊が使うソリ犬の収集、訓練、そして犬ソリの製作に取り組んだ話だ。
その訓練された19頭の樺太犬を日本の南極観測第1次越冬隊は、昭和基地に持ち込み越冬する。ところが翌年の1958 年、悪天候のため「宗谷」は昭和基地に接近できす、越冬隊員をヘリコプターで収容したものの、15頭は昭和基地に放置したまま帰国した。翌年の59年1月 14日、第3次越冬隊は奇跡的に生存していたタロとジロを発見する。ブログの最後に大学生姿の青年・安藤さんと一緒に写っているのが、そのタロとジロが子 犬だったときのもので、実に貴重な写真である。
安藤さんの回想には、勝手に走る犬の方向性を保つための先導犬の決定、それぞれ違う犬の個性を把握し、チームにまとめ上 げていく苦労の大変さが書かれている。だが私が書いた35年前の記事では、肝心の犬ソリ旅行の大変さが全く伝わってこない。そこで勝手ながら植村さんの 「北極1万2千キロ」から引用させてもらって、植村さんが体験した犬ソリ単独行の壮絶なまでの苦労を追想することにする。
◆犬ソリ単独行は無理
1974年12月29日。植村さんはグリーンランドの人口60人の部落を12頭の即席仕上げの犬ソリチームで出発した。 最初は号令をかけても犬たちは勝手に走ろうとするから扇状に広がる綱がからまって混乱する。結局、ムチを振り回して脅して走らせるしか術がないことを知 る。油断をすると犬は逃げる。老犬はへたばって動かない。途中立ち寄る部落で新しい犬を買い込む。ところが集団で逃走してしまう。その度に部落に連絡して 金を払い連れ戻してもらう。こんな犬たちとの闘争を繰り返しながら犬ソリ旅行を続けるのだ。立ち寄る部落の先々で、犬ソリ旅行は単独では無理だと忠告され る。イヌイットたちは輸送手段を犬ソリからスノーモービルに切り替えているところが多い。そんな犬たちとの悪戦苦闘ぶりを植村さんは、こんなふうに書いて いる。
◆メス犬のアンナをリーダー犬に
「このボス犬を橇の先頭に立てた。だがちっとも私の指図どおりに走らない。私が怒ってムチを振ると、すっかりいじけて他 の犬の中にもぐり込んで橇をひこうとさえしないていたらくだ。私は業を煮やし、リーダーを交代させた。立った耳をピクピクと動かすチームでいちばん利口そ うな犬を先頭に立たせてみた。しかしこれはあまりにケンカに弱すぎた。後ろの犬たちがこの先頭の犬に追いついてかみつこうとする。先頭の犬はかみつかれま いとしてさらに後ろにまわり込み、大きな犬の尻の後を走ることになる。これも失敗だ。最後にチームの中では小柄なほうではあったが、他のどの犬とも喧嘩を しなかった1頭のメス犬を先頭に走らせてみた。このメス犬は私のいうことはほとんど聞かなかったが、他の犬たちはメスの尻を追うようにしてこれに従って 走った。これでやっとうまくいきそうだ。私はチーム唯一のこのメス犬をリーダーとして使うことを決め、「アンナ」と命名した。アンナはエスキモー語で女性 を意味する。またエスキモーの女たちには、アンナという名前がきわめて多いのだ」
◆アンナはプレイガール?
このアンナが1年5ヶ月間、最初から最後まで残って植村さんを支えたのだ。旅行を終えても手放すことができなくなり、北 海道の旭川動物園に引き取られたが、86年7月死亡した。犬ソリ単独行で大変なのは10頭を超える犬たちの食糧確保だ。立ち寄る部落の先々で脂肪分の多い アザラシ、セイウチ、オヒョウなどを仕入れるのだが、悪天候が続くと底を突く。アザラシ、カリブーを銃で仕留めようとするが当たらない。衰弱して死亡した 犬を共食いさせたこともある。メス犬のアンナが発情すると、他の犬は互いに闘って、争う。その度にオス犬たちはケガをし、疲労していく。
「アンナの発情は5日目。オス犬たちは橇を止めるたびに休養や餌よりもアンナを求めて噛みつきあう。置き去りにしたボス 犬に代わって、ヤコブスハウンの黒犬がボスの座につき、アンナを独占することが多いが、他の犬も新しいボスの隙をみてはアンナに迫る。アンナは1日3回ほ どパートナーをかえるプレイガールぶりを発揮している。けんかの度に足を負傷するオス犬がいる。ボスの黒も例外ではない」
◆犬の足袋を500足
疲労からか犬の足裏に裂傷ができて、血を流したり、中にはザクロのように口を開け、肉が飛び出すようになる犬も出てくる。そうなるとスピードが上がらず、食糧だけが減っていく。疲労のためアンナでさえ、植村さんの命令が分からなくなっていく。
「エスキモーの古小屋の屋根のシート地をはがして犬の足袋にする。1日かかって60足できた。足袋は袋状に縫い込むだ け、足にはかせた上から、脱げないように紐で結ぶのだ。今日までにいったい何足の足袋を作ったろう。5百足は作っているはずだ。指先には針仕事で水泡がで きている。夜は足袋作り、昼は破れた足袋をはきかえさせる作業の繰り返しだった。リゾリュートで手に入れた白犬は足袋をはくことを嫌がり、紐で結び付ける ときも暴れててこずらせた。ケンブリッジベイまであと200キロ。今日の休養で明日は犬たちが元気よく走ってくれるといいのだが…。1日中ムチで叩かれる 犬たちも辛いだろうが、私も辛い。体力を消耗する。単調な足袋作りの方がまだしも楽だ」
こんな想像を超える苦労を重ねてまで犬ソリ旅行にこだわり続けたのは、犬ソリによる南極点旅行と南極大陸最高峰ビンソン・マシフ登頂の夢を捨てることができなかったからに違いない。その植村さんの南極への挑戦は続く。
(横川 和夫 2010年6月13日)
連載ルポ「新しい南極」(8)
1年に1回の南極カジノ
体育館が即席のクラブハウスに
「南極カジノへご招待! ミスチャンスは一生の損だよ。大金ガッポリやってみな」―こんなポスターが1週間前からマク マード基地に、隣接のスコット基地の食堂に。黒いハットにマドロスパイプ。トランプ片手にウインクを送るディーラーの図柄が何やら血を沸き立てる。1年に 1回の「とばく市」開帳にでくわした。
ハロルドクラブハウスに入るキウィたち
◎消防署長や署員も参加
夕食後、スコット基地のニューマン隊長は言った。「今夜、これからカジノへ出かける。希望者は手を上げろ」。ほぼ全員 が挙手。ハウスマウス(宿直当番)に当たった広報担当のニックは「おれはついてねえよ。よりによってさあ」とこぼす。機械屋ディックは茶の靴をピカピカに 磨き上げてお出ましだ。
カジノのありかはスコット基地から車で15分のマクマード基地体育館。バスケットコートのあるカマボコ兵舎入口に「ハ ロルドクラブハウス」と、即席の看板が。受付で換金する仕掛け。1ドルで25セントと印刷された白いプラスティック札が4枚になる。中央にブラックジャッ クが9卓。そのほか風車ゲーム、クラプスとか。さすらいのギャンブラーよろしく各テーブルをかき分け突入を図ると、何と太い刺青の腕を見つけた。「24時 間体制で守りを固め…」と豪語していたミニアチ消防署長だ。署員も大勢いる。
「ありゃ、署長がこんなところにいていいの」
「だいじょうぶ。ここまで消防車を運んできてある。火事があれば、ここから出動だ」と腰にぶら下げた無線機を取り出し、ニヤッと笑った。
女性も入ってブラックジャック
◎一晩の純益は3000ドル
屋台もある。ビール、そしてハンバーガー。何でも25セント。素人ジャズバンドもボリュームいっぱいにしての演奏。ムンムンした熱気は南極の寒さも吹っ飛ばしそうな雰囲気。最高司令官のバン・リース海軍大佐がタイピストのジャネットさんと踊り出した。
ジャネットさんと踊る最高司令官・リ−ス海軍大佐
翌日のスコット基地。
「お前はいくらすった?」
「10ドル」
「おれは50ドル」
「儲かったヤツはいないのかい」
「俺たちの基地では聞かないね」
マクマード基地広報官のアダムズ君の話だと、総純益は3000ドル(90万円)。米カリフォルニア州とニュージランド南端のクライストチャーチに寄付、かわいそうな子どもたちの基金になるという。注=当時は1ドル300円=
◎濡れ場は回転止めるサービスも
とばく市を除いた娯楽は映画と酒だろうか。スコット基地ではウイスキーも横綱級。映画館はマクマード基地には6館もあり、1週6本上映。すてきな濡れ場は回転を止めてサービスし、日曜以外は夜8時から開館する。
酒場は映画館に付属したのが多い。上官が集まるカマボコ兵舎の「O(おー)クラブ」では。婦人兵のオ・コイヤー大尉はここの常連だ。夜も11時。時には看板の午前零時近くまで飲んでいる。
「私ね、南極に来てよかったと感謝しています。ここで西ドイツ、フランス、ソ連の人たちと仲良くおしゃべりしました。各国が協力し合う姿はワンダフル」
Oクラブではオ・コイヤー大尉と踊る
と、突然、バーテンのカーター君(25)が巨体をゆすって釣り下がっている鐘に飛びついた。「ガーン」という鈍い響き。
「やったあ」「やった」
10数人の飲んべえたちが手を叩いて、はやし立てる。入口に現れた男が気まり悪げに脱帽したところだった。オ・コイヤー大尉が説明してくれた。
「当クラブの規定によると、帽子をかぶって入ると全員に1杯づつおごるのよ」
どの基地でも土曜日の夜は徹夜で飲み明かす隊員でにぎやかだった。早暁、酔っぱらいがコーラ入りバケツを持って各部屋を回り、ぐっすり寝込んでいる隊員をたたき起し、「モーニングコーラだ」と無理やり飲ませることもあるという。
◎家族の便りが一番
だが南極で映画、酒よりもっとうれしく、楽しいものがある。家族からの便りである。 長期旅行から帰ってきた隊員たちは、荷ほどきもほどほどに、まず手紙をむさぼり読む。 映画、酒場のないドライバレーのバンダ基地(ニュージランド)では唯一の楽しみは手紙だけだった。食事がすむと5人の隊員たちはそろって手紙を書き始める。隊長のデス・コアさん(48)は「下手だけど」と言って愛妻ジェニーに送った詩を口ずさんだ。
お前がつづったいとしい手紙
何度も何度も読み返す
洗いもしないこの指で
とうとう手紙も黒ずんだ
おまえの文はつたないが
日々の補給の楽しさ越えて
語りかけるよ生き生きと
心に触れるわが家の集い
大風に耐えるたくましい力
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
南極点ではスリー・ハンドレッド・クラブ
植村直己の息抜きはコンノット
私が10次隊の同行記者として昭和基地を訪れたとき、越冬隊員たちが真っ先に飛びついたのは、やはり家族からの便りと写 真だった。1969年当時、インターネットもなく、日本との唯一の連絡手段は銚子無線局を通じての短波無線。短波だから太陽のデリンジャー現象による電離 層の状態に左右され、通じないこともあった。
「ふじ」が昭和基地に接岸したのは1月6日。乗組員全員が甲板に整列、着岸ラッパが氷海に鳴り響いた。私も松島艦長とと もにデッキにいた。鳴り終わったとたん、通信長が駆け上がって来て「横川さん、電報です」と一通の電報を手渡してくれた。開いてみると妻からだ。「ダンシ ブジシュッサンス」という片仮名の文字。松島艦長が横で「おめでとう。私が名前を考えよう」と、喜んでくれたのを覚えている。その3男は41歳。あれから 41年後の今は人工衛星のおかげで、昭和基地からは東京・立川にある国立極地研究所を経由して各家庭をはじめ全国どこにでも電話が通じる。インターネット の登場はまさに情報革命なのだと改めて思う。いろいろなところで人間生活のパターンを変えているのだ。
◆大の大人が「ままごと」遊び
おかげで昭和基地での越冬隊は家族とのコミュニケーションは不自由なくできる。だが越冬生活となると別だ。新しい家族と 暮らすようなもので、閉鎖社会特有のストレスが生じてくる。できるだけ問題を起こさず、スムースに過ごすための生活の知恵が娯楽であり、さまざまな行事で ある。南半球だから花祭りといっても桜はない。ところが昭和基地では外はブリザードでも造花の桜が咲き、ぼんぼりや紅白の垂れ幕まで張って、花見酒を楽し む。その点を見事に描写、分析しているのが「南極に暮らす」を書いた39次越冬隊員の坂野井和代さんだ。日本各地で続けられているさまざまな行事や祭り は、参加することで地域や家族の結束を固める役割を果たしていることに気付かせてくれる。
「楽しく過ごすコツというのは、『とにかく本気で、その気でやる』こと。お花見にせよ、盆踊りにせよ、中途半端なセッ ティングをすることではありません。ぼんぼり、紅白の垂れ幕、桜の造花、お祭りのやぐらと太鼓。とにかくその行事に必要な物を、ほとんど完璧に用意してい ました。用意すると言っても、南極では限られた物資しかありませんから、ある物とアイデアを駆使して自分で自作するのです。観測隊の中にはさまざまな専門 分野の人がいるという事情もありますが、皆、それを超えて多才な技術・能力を発揮。アイデアとやる気と言ったものも、日本にいる時の何倍も出ていたのでは ないでしょうか。ない物を工夫して作っていくという行為自体が、娯楽の一つになっていったと言えます。これはなにも、物に限ったことではありません。その 時の雰囲気もまた、驚くほど本気なのです。各種行事や日常生活で村や店を作っていく様子は、幼い頃その気になって『ままごと』をしていた時と、本当によく 似ていると思いました。大の大人がここまで無邪気に、本気に何かを楽しんでいるのを、私はかって見たことがありません。皆のその無邪気さに感心しつつ、私 自身もすっかりその気になって楽しんでいました。そして、それはとても気持ちの良い経験でした」
◆全裸で氷点下73度の外へ
南極点にある米国のアムンセン・スコット基地も同じだ。越冬中はさまざまな行事やイベントが行われる。女医のジェリ・ イールセンさんが書いた「南極点より愛をこめて」(講談社刊)には面白い話が載っている。厳冬期に入る4月末になると、越冬隊員たちの間で「そろそろス リー・ハンドレッド・クラブかな」という、ささやきが始まるのだそうだ。
南極点基地の昔からの伝統で、そのクラブのメンバーになるには、外気温が氷点下100度F(73度C)になる日を待って 200度F(93度C)のサウナに入る。我慢できなくなるまで体を温め、一気にドームの外に飛び出して戻る。つまり300度の温度差を体験した者だけがメ ンバーの資格を得るというのだ。身につけるのは長靴とネックウオーマー(肺を凍傷から守る器具)だけだから全裸に近い。男性だけは大切な部分が凍傷にかか らぬよう靴下などの「帽子」をかぶせることが許される。元気な隊員は150メートル先の南極点に建っているセレモニー・ポールを3、4分かけて一周してく るという。
◆正真正銘の南極人に
さて女性のニールセンさんはどうしたか。親しい女性隊員のロウリーさんと2人で決行する計画をたてた。しかし万一に備えて信用できる男性隊員2人に計画を打ち明けたら、『自分たちも一緒に参加しよう』ということになった。その5月5日はやって来た。
「サウナの温度を200度Fまで上げるのだ。10分ほどで、がまんできなくなったので、わたしたちはブーツをはき、タオ ルを投げ捨てて走り出した。廊下を走り、二重ドアを突破し、スチールの階段を駆け下り、ドームを突っ切り、通路を抜け、外へ出るドアを開け、氷の急斜面を 駆け上がって酷寒の闇夜に出た。4人とも、悪さをしている子供のように笑いが止まらなかった。丘の上では秒速3.5メートルの風が吹いていたが、意外にも 寒さは感じなかった。それに恥ずかしくもなかった。全身から蒸気が立ち昇っているうえに、汗が凍って白い粉を吹いたようになっていたからだ。(中略)わた しは初めての体験に夢中で、不快も苦痛も感じなかった。わたしはセレモニー・ポールへの遠出は思いとどまり、今回の偉業を大急ぎで手ぶれ気味の写真におさ めて、5、6分でドームに戻った。ドームの中に戻ったとき、はじめて少し寒いと感じた。そして皮膚感覚がなくなっているのに気づいた。私たちはサウナまで 走って戻り、もういちどからだを暖めた。とたんに喘息の発作が起きた。ネック・ウオマーを付けなかったので、冷たい空気で肺をやられたのだろう。(中略) ロウリーと私は『スリー・ハンドレッド・クラブ』に入会できたことが嬉しくてしかたなかった。これで私たちは正真正銘の南極人だ」。
◆可愛がった仔犬が死んだ
犬ソリ単独行の植村さんの場合、楽しみ、娯楽は何だったのだろう。「北極1万2千キロ」を読むと、旅行中にアンナが産み落とした仔犬のコンノットが植村さんのペットだった。コンノットと話をするのが植村さんにとって唯一の憩いの時間だったようだ。
「昨日、コンノットという名前をつけてペットのように可愛がっていた仔犬に胴バンドを付け、チームに仲間入りさせた。い ままで橇の後ろの長柄に紐でつないでおいたが、チームの中に入りたくて、懸命に紐を引く。まだ橇を引くには小さすぎると思ったが、試しに胴バンドをつけて 曳かせてみた。仔犬は喜んで、扇状につないである犬たちの間に入ると、母親のリーダー犬アンナの側に行きたがり、一生懸命引っ張る」
そのコンノットがそれから2日後、体調を崩して死んでしまうのだ。
「昨夜、仔犬のコンノットが悲しそうな泣き声を上げるのがテントの中から聞こえた。2日ほど前からクンクン泣いていたが、別に気にしてなかった。テントの横の空になった橇の上に載って泣いているので『何が悲しいんだ』と、テントの中から声をかけた。
朝方、寝ている私の足の方が重く、モコモコと動くので何かと思ったらテントの外から足の上に乗っている。『これはおれの テントだ。足の上に乗ってはだめだよ』と押しのけた。コンノットが出発するときテントから出てみると、マイナス40度を超すというのに、コンノットは4足 を伸ばして横たわっている。この寒いのに身を丸くせず寝ているとは元気、さすがはわが仔犬だと頼もしく思い、『足を伸ばして寝ていると凍傷になるぞ』と声 をかけたが知らぬ顔で反応を示さない」
変だと思ってコンノットの体を起こしたら、ばったり倒れた。驚いてカリブの毛皮にくるみ、橇にくくりつけて出発する。
「ときどきのぞいてみると、コンノットは大きく息をしている。目は既に反応を示さなかった。出発して1時間、午前11時 についに息をひきとった。胸がつぶれる思いがした。本当にまいった。せめて昨日からわかっていれば、温かいテントの中で寝かせてやったのに…。この仔犬の コンノットは、越夏中にアンナから生まれた6頭の仔犬のなかで、ただ1頭、残った犬だった。私の行くところにはいつもついてきて、餌がないときでも、この コンノットにだけは腹いっぱい食べさせて、他の犬が羨むほど可愛がっていたのだが…」
◆甘えを許さなかった極北の自然
エスキモーの人たちは犬を単なる使役、道具と受け止めているから、植村さんのように犬に対する思い入れ、感情移入はしない。
「思えば、ケケッタ部落を出発してから、私は何頭の犬を死なせてきたことか。私の旅は、犬たちの犠牲の上に成り立ってき たのだ。エスキモーは、けっしてそのような考え方はしない。彼らにとっては、犬はあくまでも一種の家畜なのだ。犬の死は単純に経済的な損害にすぎない。し かし、私は犬についてはついにエスキモーのように割り切って考えることはできなかった。(中略)犬をそのよう使わなければ、犬を犠牲にしなければ、私自身 が生きてこられなかったのだ。旅の行程が進み、アンナをはじめとする古顔の犬たちが私に慣れるにしたがって、私の犬のあつかい方ははっきりエスキモーとは 違うものになってきた。だんだん、私が養っている家族というような感じになってきた。状況がきびしければやはり棒でたたいたけれど、それは憎しみをぶつけ るのではなく、叱咤する、という気持ちを失わなかったと思う。
そんな私の気持ちをいっそう強めたのが、アンナが産んだコンノットの存在だった。エスキモー犬をペットにしてはならない ことはわかりきっているが、私は禁を破ってこの仔犬をペットのようにあつかってきた。コンノットは、私の気持ちを和ませ、また元気づけてくれた。極北のき びしい自然は、そのような私のわずかな甘えさえも許さなかった。私は橇をとめ、雪のふき溜まりを見つけて小さな穴を掘った。コンノットを両手で抱いて、穴 の中に置いた。しなびたような遺体に雪をかけ、その上にせめて何か墓のしるしを置きたかったが、板きれ一枚も持ってはいなかった。見渡す限りの大氷原のな かで、わたしはできるだけ多くの雪をかきあつめて、50センチほどの土饅頭をつくった」
(横川 和夫 2010年6月20日)
連載ルポ「新しい南極」(9)
「死の谷」の恐怖
寿命1ケ月半のオニックス川
アザラシのミイラが転がる乾燥地帯
「こりゃひどい。気管支がメチャメチャに荒れている」―南極から帰国して診察してもらった医師がレントゲン写真を見てうなった。
「よほどひどいセキだったんですなー」
◎あまりの寒さに3回で越冬中止
南極で風邪をひいた。ちょっとノドが痛いと感じただけだった。その次の日、スコット基地からニュージランドのバンダ基 地に移った。バンダ基地はスコット隊が「死の谷」と呼んだドライバレーの中心部ライト谷にある。周囲は白い氷で埋め尽くされているのに、ドライバレーだけ は名前の通り地球の地膚を露出している露岩地帯である。
ドライバレーの地図
死の谷と呼ばれるライト谷にあるバンダ湖
吹きすさぶ強風、砂漠のように続くモレーン(堆積岩)、そして強度の乾燥―と地球科学者はドライバレーを表現する。
スコット基地からヘリコプターで2時間。諏訪湖ほどの大きさのパンダ湖畔にバンダ基地はあった。ニュージランドがドラ イバレーの謎を解くため1969年1月9日に開設した小さな基地である。越冬隊員はわずか4人。越冬したところ、その7月には最低気温氷点下56・9度を 記録するなど、あまりの寒さに69、70、74年の3回で越冬は止めることにしたという。
尾根からくずれ落ちるモレーンや岩屑の中にあるバンダ基地全景
寒さのため越冬を中止したバンダ基地
バンダ基地で夕食をとる隊員たち。中央の黒服がデス・コア隊長
◎異常乾燥で止まらないセキ
「それにしては大したことないな。昭和基地と同じじゃないか」
ヘリコプターから降りた瞬間、こんな感じが頭をよぎった。
ところがその夜、それが間違っていたことをいやというほど知るハメになる。セキが止まらないのである。夜、寝袋に入っ たとたん、セキは始まった。我慢するとノドの奥がモソモソ音を立てる。クッ、クッ、クッ、クッ。セキをしたほうが楽だ。出るがままに任せる。なんと1分置 きにセキが出る。激しい衰弱。これが毎晩続いたら死ぬな―とも考えた。
湿度が異常に低いのだ。カラカラ天気でも湿度40%台の日本の異常乾燥どころではない。バンダ基地の記録だと、昨年10月の平均湿度は27%。最低は何と9%、湿度30%以下の日が18日もあったという。
健康体には何でもない極度の乾燥だが、弱点をさらすと徹底的に攻撃してくるドライバレー。そこに「死の谷」の恐怖を感じた。
◎45bの強風が谷を吹き抜ける
それは谷底に点在するアザラシのミイラにも示されていた。血を吐いて倒れているカニクイアザラシ。体長130センチ、 きつね色の毛、目玉だけは干しブドウのように黒く干からびている。口から流れ出た血は赤黒い塊となってモレーンの上で凝結している。極度の乾燥は腐敗を嫌 うのだ。木越邦彦博士(学習院大)が放射性炭素法によるミイラ死亡時を推定する年代決定を試みたら「1210年プラスマイナス120年」という数字が出 た、という。1000年前のミイラ。これがアザラシでなく人間だったらと考えたらゾクゾクと背筋が寒くなった。
1000年前と推定されるアザラシのミイラ
北側はオリンパス山脈。南はアズガード山脈といずれも2000メートル級の尾根にはさまれたライト谷。地図ではミミズのはったようにしか見えない谷底だが、大量のモレーンと両側の尾根から崩れ落ちた岩屑がきれいなカーブを描いている。
その谷底を強い風が吹き抜けていく。昨年8月10日には最大風速90ノット(秒速46メートル)を記録、風力計が壊れ たという。この風の威力は無数に散乱する岩屑にも残されている。強風で飛ばされた砂粒がこれらの岩屑を何十万年、何百万年かかって削り、きれいに磨き上げ る。表面がピラミッド型に型どられたのを地質学者は「三稜石」と呼ぶ。細長いもの、四角形とさまざまだが、みな鋭い尾根ができている。自然の威力とでも言 うのだろうか。
強風で吹き飛ぶ砂粒で削られてできた三稜石
◎砂漠の谷底を潤す氷河の溶け水
「オニックス川が間もなく到着するぞ。見に行こう」―バンダ基地のデス・コア隊長が誘ってくれた。午後11時だった。オニックス川はドライバレーの唯一の夏のしるしだ。
わずか1ケ月半で消えるオニックス川
源は29キロ離れたロス海峡近くにあるライトロア氷河。普通なら海に向かって流れるが、数百万年昔、氷河が削り取ってできたこのライト谷は奥の方が海岸よりも低い。
12月初め、砂漠のような谷底をはいずり回って流れる氷河の溶け水がバンダ湖に注ぎ込む。それもわずか1月半の寿命。1月終わりには再び凍り、やがて乾燥して消えてしまう。
そのはかない「自然の生命」はバンダ湖から500メートル先にある堰に到達しようとしていた。流れと言っても幅3、 40センチ程度。乾いた砂を湿らせながら、石と石との間を縫うように、じわじわと進む。流れの弱い両端にはすぐ薄氷が張る。デス・コアさんが地面に両手を ついて砂だらけの水を飲んだ。
オニックス川の水を飲むデス・コア隊長
◎異常気象のナゾを解くカギ
「キウィ」たちは69年にこの堰を築き、オニックス川のバンダ湖への流入量を調べている。バンダ湖の水面測定も70年 から始めた。短い夏にオニックス川から水の供給を受けた水面は上昇する。しかし長い冬の間、蒸発と昇華で再び減る。そのデータを積み重ねて、南極の氷河の 消長を突きとめようというのである。
日本でも話題になっている異常気象。気象学者の間では最近、この異常気象のナゾを解くカギは南極、北極に集中している氷冠の動きにあると言われ始めている。
平均厚さ2000メートル、世界の氷の90%で覆われている南極大陸にとって、露岩地帯のドライバレーはナゾ解きの「窓」でもある。
しかしボーリング調査を含めは多角的な調査が始まったのは4、5年前から。ドライバレー一帯の岩石が3、4億年前にできたのと比較すると、人類のドライバレーへの取り組みはやっとスタートラインに立ったと言える。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
「ルートが……」「2万フィート……」
悪天候でルート見失ったのか
犬ソリ単独行での北極点到達を成し遂げた植村さんは、ヴィンソン・マシフの登頂、そして南極点到達を目指す。しかし思う ように進まなかった。そのため1979年から81年にかけて母校、明治大学山岳部の若手OBを中軸とする「厳冬期エベレスト登山隊」の隊長としてサウスコ ルに挑む。だが単独行を得意とする植村さんにとってチームを率いて、まとめ役もしなければならない隊長ポストは大変だったようだ。隊員一人が死亡したのと 天候悪化が重なって、登頂を断念、撤収した。
これが転機になったのか植村さんは再び、南極へ動き始める。82年にはアルゼンチン軍のサポートを得る話をつけて準備を 整え、アルゼンチンの南極基地に入り待機した。ところが運悪くフォークランド紛争が勃発、最終的には軍が協力の約束を撤回したため、南極点旅行は断念せざ るを得なかった。
しかし夢は捨てきれず、アメリカのミネソタにある野外学校「アウトワード・バウンド・スクール」に参加しながらチャンスをうかがっていた。
◆突然、共同通信に
そんなある日、植村さんが何の前触れもなしに共同通信を訪れ、私に会いに来たのだ。驚いている私に植村さんは言った。 「これから厳冬期のマッキンリー(6194メートル)登頂に出発しますので、ご挨拶に来ました」。本当に律義な人だと思った。南極点旅行にはアメリカの全 米科学財団(NSF)の協力がどうしても必要で、そのためには厳冬期のマッキンリー単独登頂をやって、アメリカ人の注目を集める必要があるという趣旨の話 をしてくれたように思う。その時の彼の話で忘れられないのはエベレスト厳冬期の登頂に失敗したことが話題になったときのこと。こんなことを彼は語ったの だ。「いやあ、年には勝てませんね。頭では大丈夫と思って岩に足を置いても、足が思うように上がらないことがあったんです。私にとって初めての体験でし た」。
今、考えるとアメリカ向けに共同通信から「植村、厳冬期のマッキンリーに挑戦」というニュースを流してほしかったのだと思う。だが彼はひと言も「書いてほしい」とは口にしなかった。
◆厳冬期初の単独登頂に成功
1984年2月12日。奇しくも43歳の誕生日にマッキンリーの厳冬期初の単独登頂に成功した。これは翌13日に頂上付 近を飛んだ飛行機のテレビ朝日カメラマンンとの交信で分かったのだ。天候状態も悪く、交信は途切れ途切れ。「遥かなるマッキンリー」(中島章和著、講談社 刊)によると、後日、テレビ朝日で当時の交信を録音したテープを再生したところ、やりとりは次のようなものだった。
「昨夜、7時10分前に頂上に立ちまして、10時ころ……、下り始めましてルートが……」
―おめでとうございます。昨夜、6時50分、登頂ですね。現在地をお知らせ下さい。 「昨夜、7時10分前に登頂しまして……。ルートが……。ちょっと平らなところでビバーク……」
―現在地を
「エー、今朝(2月13日)9時に行動を開始しまして……。頂上からずーっとトラバース……。ルートが……」
そのあと飛行機から現在地の問いかけが続くが、無線状態が悪く「1万……フィート、1万……フィート」そして「2万 フィート、2万フィート」と繰り返した後、植村さんが発進した電波が雑音となって入った後、交信は絶たれた。気温が下がると電池が機能しなくなるため、交 信ができなくなったのだろう。
◆頂上に日の丸と星条旗
その後天候が悪化したため3日後の16日、植村さんから迎えを頼まれていたエアタクシーの飛行機がマッキンリー頂上近く まで飛んだ。そしてウェットバットレスの上部(4900メートル)の雪洞で植村さんが手を振っているのをパイロットのギーティングさんが確認したという。 しかし再び天候が悪化したため救援できず、その後連絡が完全に途絶え、消息不明となった。
2月20日。やっと晴れたので2機の飛行機が捜索したが、植村さんの姿は発見できなかった。明治大学山岳部が捜索を始め 3月6日に5200メートルの地点で雪洞を発見、中に残されていた装備など35点を回収した。ということはギーティングさんの証言が正しければ植村さんは 頂上からの帰路、雪洞に立ち寄らなかったことになる。しかしベテランの植村さんが雪洞を見過ごすとは考えられす、明治大学山岳部の捜索隊はギーティングさ んの誤認だと結論付けた。そして第2次捜索隊は5月14日、マッキンリーの頂上に植村さんが立てた日ノ丸の旗と星条旗を見つけたのである。山頂付近は厳冬 期には秒速83メートルの強風が襲うこともあるという。なぜ消息を絶ったのかは不明のまま捜索は打ち切られた。その後、彼の遺体は発見されていない。
私が気になったのは植村さんが出発前に「頭では大丈夫と思っても、足が上がらないことがある」と、漏らしていたことだ。 交信でも「ルートが」という言葉を繰り返している。明治大学山岳部炉辺会編の「極北に消ゆ 植村直己捜索報告・追悼集」を読むと、マッキンリー登頂にも予 想以上の時間がかかっており、疲労と悪天候が重なって、頂上到達の帰路、ルートを見失い遭難したのではないか、と思えてならない。もし無事、帰国していた ら犬ソリによる南極単独行を遂行するため、経済的な問題も含め悪戦苦闘しなければならず、その苦労を思うと、植村さんにとってはむしろ良かったのかもしれ ないと思ったりもした。
◆やろうと思えば何でもできるんだ
インターネットを検索していたら「植村直己最後の言葉」というユー・チューブのサイトがひっかかった。「驚き桃の木 20世紀」の一部を録画したもので、植村直己さんがマッキンリーに出発前に、ミネソタの野外学校で子どもたちを前に語っている姿とともに彼の言葉が映し出 されていた。植村さんらしい言葉だったので、ここに再録して、冥福を心から祈りたい。
君たちに僕の考えを話そう
僕らがこどものころ、目に映る世界は新鮮で、すべてが新しかった
やりたいことは何でもできた
ところが歳をとってくると疲れてくる
人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう
世界の美しさを見ようとしなくなってしまう
大部分の人の心は夢を失っていくんだよ
でも僕はいつまでも子どもの心を失わず、この世を生きようと思う
不思議なもの、すべての美しいものを見るために
いいかい、君たちはやろうと思えば何でもできる
僕と別れた後もそのことを思い出してほしい
やろうと思えば何でもできるんだ
(横川 和夫 2010年6月27日)
連載ルポ「新しい南極」(10)
汚染されない南極を残すために
環境保護に世界一厳しい目
ペンギンマークが入口のドアについているマクマード基地の生物研究室。ここは世界で最も厳しい姿勢の環境保護局でもある。
監視員は20歳を超えたばかりのラス・ドンラン(22)、ロブ・スミス(23)、ビンス・ハワード(22)の3君。いずれも米ハーバード大の大学院生で専攻は生物学。3人の仕事は南極で際立って神秘に富んだ露岩地帯ドライバレーを人類の汚染から守ることだ。
◎人間が運び込むバクテリア
日、米、ニュージランド3国によるニューハーバーでのボーリング掘削現場で、3人は交代で寝泊まりして環境破壊に目を 光らせる。うっかりタバコの吸い殻を地面に捨てようものなら、うんと油をしぼられる。立ち小便も厳禁。ドラム缶の中へ。そしてボーリング作業の開始前、作 業中、作業後の3回、空気と砂を採取して培養、バクテリアの繁殖状況、二酸化炭素、二酸化窒素の増え具合を観察し比較している。生物研究室の大型冷蔵庫は そのバクテリアの培養皿でいっぱい。
生物研究室の冷蔵庫にはバクテリアの培養皿が積み重なっていた
「見てください。これだけ人間は色々なバクテリアを運び込むのですよ」
ハワード君が見せてくれた2皿の培養皿。作業前の分は小麦色の斑点が10数個ついているだけだが、作業後はどうだ。オレンジ色、黒っぽいの、灰色と斑点は無数に広がっている。
「こんなにバクテリアが」と見せてくれるハワード君。左が作業後
「この中の多くは厳冬期に死滅するが、なかには生き残るものもあるに違いない。それが何かを突きとめ、繁殖防止の手段を見つけなければならない」とハワード君。
◎環境破壊から守る大学院生たち
ハワード君は3年前、米バージニア州が山麓地帯に3つの発電所を建設する計画を発表したとき、バージニア大学あげて発 電所の植物、動物に与える影響調査をしたメンバーの1人だ。調査の結果、大きく環境破壊を引き起こすことが判明し、このため3発電所のうち1つの建設を中 止させることに成功した。
「人類は無謀にもあらゆる大陸を汚染し、破壊してきた。そして南極も、これから石油、金、鉱物資源などが発見されるにつれて、ドッと人間が集まる場所になる」という。
ニューハーバーにあるボーリング掘削現場
「だから」と語を継いで若い科学者は熱を込めた。
「どんな細菌やバクテリアが人間とともに持ち込まれ、どんな条件で成長するかをあらかじめ突き止めておき、できるだけ早く、南極の環境破壊防止手段を築く必要がある。われわれは未来の人類のために、汚染されない南極を残さなければならないのだ」
ハワード君の言葉の中に、新しい世代に芽生えつつある息吹を感じた。
バンダ湖の奥にあるドンファン池
空気のサンプル採取のためヘリコプターでドンファン池に
サンプルを採取するスミス君
◎クリーン作戦でキウィが勝った
各国基地が頭を痛めているもののひとつが環境保護とゴミ処理問題。ニュージランド南極局のトムソン局長は「面白い話が ある。6年前、スコット基地とマクマード基地がクリーン作戦を展開した。お互いに海氷上にゴミを捨てたのだが、後日、スコット基地のゴミを載せた海氷が海 流に乗ってマクマード基地に流れ着いた。勝負はスコット基地の勝ちさ。ハッハッハッハ」と笑った。
環境問題がこれほどやかましくなる前までは、海はゴミ捨て場そのものだった。それが4、5年前から少しずつ変わった。 夏期人口600人を超えるマクマード基地ではゴミを1ヶ所にまとめて2月が終わるころ、油をかけて燃やすようになった。ゴミため場は東京都の夢の島を連想 させるほど、木枠、空き缶、古タイヤなどで汚らしい。ゴミ焼却日には大黒煙が一日中上がっている、という。
◎小は済ませてきたか
その点、小所帯(夏期人口30人、越冬隊11人)のスコット基地は何かと便利なものだ。昨年から屑かごを燃えるゴミ、 燃えないゴミの二種類に分別。1千万円もする焼却炉をスコット基地に設置して燃えるゴミは燃やす。そしてプラスチックなど燃えないゴミは船でクライスト チャーチまで送り返す。
スコット基地のトイレは変わっている。腰掛便器の下にセメント袋のような紙袋がぶら下がっている。いっぱいになると1 週間ほど放置する。乾燥すると焼却炉行きだ。だから小便を一緒にすると怒られる。食物のせいかキウィの所要時間は実に短い。日本人のように力まなくても大 は小を伴わずツルリと出るようである。ドアにだれが張ったのか1枚の紙切れ。赤いマジックインキで「注意! 小は済ませてきたか」とあった。
スコット基地の最新型の焼却炉。 大の入った紙袋もこれで燃やす
◎汚物はヘリコプターで運ぶ
ドライバレーのバンダ基地の汚物もドラム缶に収容する。スコット基地にヘリコプターで空輸、処理する仕掛けだ。昨年、越冬隊が残した大と小はドラム缶で13個もあったという。
ニューハーバーの作業現場からヘリコプターで運ばれるゴミ
バンダ基地からもゴミがヘリコプターで
南極点やサイプルなど大陸氷上の基地は全て氷の中に埋め、汚水は垂れ流しである。1年に4、500メートルしか氷が移動しないという安心感も手伝っているのだろう。しかし、これも将来、大陸氷の汚染源として大きくクローズアップされると予想がつく。
最近の調査で、大陸氷の下2000メートルの岩盤の上に10数か所にわたって水が大量にたまっていることが発見された事実がそれを証明する。
「昔は核燃料の廃棄物処理は南極大陸に捨てるのがよいとみな真剣に考えた。しかし、岩盤の上に水があることが分かって 極めて危険なことが分かった。水は岩盤を通じてどこにでも流れる。もしも捨てていたら、それこそ南極は核汚染で大変な騒ぎだっただろう」と、オーストラリ ア元南極局長のフィリップ・ロウ博士の話。
白い大陸は人類の環境汚染に対するリトマス試験紙である。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
南極観測に人生をかけた男
極点旅行を遂行した村山雅美さん
新聞記者という仕事は、その道に卓越したさまざまな人と出会い、直接話を聞く機会に恵まれる点で他とは比較できないほど 魅力ある仕事だと思う。南極取材のおかげで植村直己さんと話ができ、人格の一端に接することができたという思いに浸っていたら、どうしても触れざるを得な い人がいることに気付いた。それは昭和基地と南極点の5180キロを雪上車で141日かけて往復した極点旅行隊を指揮した隊長の村山雅美さんだ。
極地にロマンを求める点では共通しているが、他は対照的に違うのも面白い。
私が村山さんと初めて出会ったのは41年前の1969年1月6日午前10時。村山隊長率いる極点旅行隊が昭和基地に近い南極大陸の先端、F16に帰還した時だ。
3本のシュプールの先に大型雪上車3台が。その先が昭和基地のあるオングル海峡
◆隊長車にたなびく海上自衛隊旗
あの時の光景は今でも頭に焼きついている。松島「ふじ」艦長、楠宏10次越冬隊長、そしてNHKの木村征夫カメラマンら と共に「ふじ」から出迎えのヘリコプターに乗ってF16の上空に到着、旋回していると、白い大陸氷に刻印された鉄道線路のような3本のシュプール先端に黒 い大型雪上車3台が止まった。
604の屋根で手を上げる村山隊長
3台の真ん中が司令車であることは、日の丸ではなく16条旗の海上自衛隊旗がたなびいていることで分かった。屋根の上で、真っ黒に日焼けした村山隊長があぐらをかき、愛用の16ミリカメラを回していた。
愛用の16ミリカメラを回す村山隊長
村山さんは日米開戦のため1941年12月、東京帝国大学経済学部を3年で繰り上げ卒業し、海軍兵科予備学生を経て予備 少尉となり、第3艦隊司令部を置く空母「瑞鶴(ずいかく)」の暗号解読士として勤務した。このためか海軍には特別な愛着を持ち、極点旅行隊の雪上車4台に もレイテ沖海戦で名をはせた海軍機動部隊の航空母艦になぞらえ、「翔鶴(しょうかく)」「蒼龍(そうりゅう)」「飛龍(ひりゅう)」、そして司令車の 604号車には「瑞鶴」と名付けていた。
◆「おーい、左腕を上げろ」
ヘリコプターが着地したとたん、遠藤八十一(やそいち)隊員が雪上車めがけて突っ走った。前年の10月3日。極点旅行に 出発して5日目。遠藤隊員は氷を掘削するドリルに手袋の紐が巻き込まれて左腕を骨折、隊列を離れて昭和基地に戻り、無念の残留を余儀なくされた。彼の姿を 目にした村山隊長が「おーい、左腕を上げろ」と叫ぶ。遠藤隊員は左腕を高く上げ、大きく振った。「よかった、よかった」と大きくうなずく村山隊長。彼の人 を思いやる象徴的な場面を見たと私は思った。
雪上車を降りて来た村山隊長を11人の隊員が取り囲み、顔をくしゃくしゃにしながら握手が繰り返された。「ご苦労様でした」「やあ、やあ」。あとは言葉にならない。
◆隠し事ができない人
私の仕事は昭和基地に無事帰還した村山隊長はじめ隊員たちの喜びの声を聞いて、原稿にすることだ。木村カメラマンととも に村山さんに近づいていく。「共同通信の横川です」と自己紹介したとたん、村山さんが開口一番言ったことは「お宅の向さんは極点で高山病にやられて、ベッ ドでうなっていたよ」。そして木村カメラマンには「極点で隈部記者は使い慣れないムービーカメラを回したから大変だったよ」と、極点で出迎えた記者たちの エピソードを披露してくれた。サービス精神旺盛というか、隠し事ができない、ユーモアに秀でた村山さんらしさをさらけ出した瞬間だった。
昭和基地を68年9月24日に出発した極点旅行隊は12月19日に南極点に到着した。このとき南極点には朝日新聞の柴田鉄治、NHKの隈部紀生、共同通信の向一陽の3人の記者たちが取材のため待機していた。
私と同期入社の向記者は東京外語大山岳部出身で、南極に行きたくて共同通信に入社した山男だ。社会部記者時代には、この 時を含めて2回も南極点やマクマード、スコット基地を訪れたのをはじめ、南米アマゾン流域に住む人々の生活に関心を抱き、「アタカマ高地探検記」「奥アマ ゾン探検記」「アンデスを越えた人々」などのルポルタージュを地方紙に長期連載し、中公新書にもなっている。最近はヒマラヤの環境破壊問題に取り組み、定 年退職後も本を書き続けている。彼が南極点到達の取材に出かけたことで、私に昭和基地帰還取材のお鉢が回ってきた。
◆耐久性、忍耐力が生活の主力
初対面にもかかわらず、村山さんは私の求めるインタビュー取材に全て応じてくれた。
11人の極点旅行で特に気をつかったのは長期間、雪上車という狭い空間で、同じ人間同士が生活しなければならないために生ずるストレスをいかに発散させるかである。
「長い時間、狭いところで生活を続ける耐久性、忍耐力が生活の主力だ。例えば私は魚が嫌いで、サケの焼けるにおいがしただけで目が覚める。それをずっと我慢する」
3台の大型雪上車のメンバーは固定していた。しかし村山隊長は南極点からの帰路ではときどきメンバーを入れ替え、他の雪上車に臨時に出張させることでストレス発散を図った。そのタイミングと組み合わせが絶妙なのだ。
141日という全行程を航空機による補給なしに走破するため、荷物の重量を極限まで落とさねばならない。食糧は12人分 の1食分をまとめて箱に詰める。重い缶詰は避けて肉類以外は乾燥食品といった具合に、事前の緻密な計画とグラム単位の計算の積み重ねる。そして予想外の事 態が起きた時、即座に決断する指揮官としての力量が極点旅行成否のカギをにぎる。そのすべてを兼ね備えていたのが村山さんだ。
◆死をかけての信頼感
その指揮官の力量が試された最初が遠藤隊員の骨折事故だ。普通なら別の人間を補充するのだが、村山隊長は、それをしな かった。1人欠員のまま、他の隊員がカバーする選択をした。おそらく他の人間が1人入ることで作業は楽になるが、チームの和が乱れるかもしれないと判断し たのだろう。それほど12人のメンバーは選び抜かれ、たとえ死が目前に迫っても、結束を乱すことはないという信頼感で結ばれていたに違いない。
雪上車は固い雪面で13トンのカブース(荷物用のそり)を引っ張ることができるように設計された。ところが予想外の事態 となった。高度が高くなるにつれ雪面が粉砂糖のような軟雪地帯になったのだ。そのためキャタピラは空転し、雪上車はアリ地獄の中に落ちたように沈み込み、 6トンの荷物を引くのがやっと。その度にカブースを切り離し、雪上車前方の雪を除雪する作業が繰り返された。アップダウンの激しい雪面を進むため重い鉄ソ リの溶接部分がはがれた。溶接修理もできず、途中にデポしたあった木製ソリに切り替える。大型雪上車4台のうち中古車だった603の「蒼龍」はエンジン故 障のため動かなくなり乗り捨てた。トラブルが起こる度に帰路の食糧を降ろしてデポし、必要な物を最小限に残し、あとは捨てることで切り抜けた。その都度、 生きるか死ぬかの決断をしたのが村山隊長である。
カブースに積んだ荷物の撤収作業が始まった
F16に到着後、大型雪上車606の屋根でジャイロコンパスを取り外していた細谷昌之隊員が黒い顔をゆがめて泣いてい た。「おれは約束を果たした、果したんだよ」と、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。村山隊長から国産の雪上車をつくってほしいと頼まれ、自衛隊の雪上 車を参考に設計しただけでなく、旅行にまで参加してしまった。予想外のトラブルが起こる度に身を小さくしていた心境が痛いほど伝わってきた。
雪上車の屋根で「おれは約束を果たした」とつぶやく細谷昌之隊員(左)
◆植村さんとは対照的な人生
あらゆる点で村山さんは自分一人で行う単独行の植村さんとは対照的な人だと思う。
東京高等師範学校(現筑波大学)付属小学校から中学に進み、山登りができる学校として信州・松本高校に進学、日本学府の 最高峰である東京帝国大へとエリートコースを歩み続ける。戦後は絹織物の輸出入では実績を誇る繊維商社のサラリーマン生活に入るが、学生時代の山仲間に誘 われて日本山岳会に入会。朝鮮戦争特需で上向いた日本経済のおかげで日本の登山界も海外遠征にヒマラヤ登山を目指すようになる。そして日本山岳会会長の槇 有恒会長、共同通信の松方三郎専務理事らから「村山をマナスル登山に参加させてほしい」という要請が繊維商社社長に寄せられるのだ。
植村さんが何の伝手もなく経済的にも血の出るような苦労をしながら、文字通り独りで道のないところを切り開いていったの に対し、村山さんはマナスル遠征、南極観測という国家的事業に「お前が必要なんだ」と乞われて、それに応えていく。国民の関心と期待が集まった事業だけに 重責を背負わされ、精神的に大変だっただろうけれど、それに応える力量、特に独特の個性ある隊員たちをまとめるリーダーシップに秀でた点でも植村さんとは 正反対だ。
◆政界への根回しも
「宗谷」が老朽化したため日本の南極観測は1962年の第6次隊で中断を余儀なくされた。その再開に向けて中曽根康弘、 長谷川峻(たかし)両代議士をマクマード基地、南極点まで引きずり出すなど、政界への根回しも村山さんならではの話である。予算削減で「しらせ」の後継船 の建造が危ぶまれたときも村山さんは「南極観測の将来を考える会」を立ち上げ、自ら会長となって東大スキー山岳部後輩の谷垣禎一財務相(当時)をはじめ霞 が関にはたらきかけて第二「しらせ」の建造を実現させた。
私は、そうした逸材を世に送り出すきっかけをつくったのが、戦前のエリート教育だったと思う。それを実証する村山さんの貴重な体験を村山さんから聞き出した人たちがいたのである。
(横川 和夫 2010年7月4日)
連載ルポ「新しい南極」(11)
北半球で絶滅したアザラシ
30%は不妊症のナゾを探る
ミネソタ大学生態・行動学部のスニッフ教授は、鼻唄まじりでおんぼろトラックのハンドルを握っている。ロス入江の海氷上にできたハイウェーだが、クラック(氷の割れ目)があるのでスピードは出せない。ちょっと気を緩めれば、運転席の天井に頭をいやというほどぶつける。
「私は南極がこれで6回目。最初は砕氷艦でやってきたもんだ。12月に帰るが、ここよりずっと寒いミネソタの冬が待っている。だから私はいつも冬を2回経験する」
12月末。厚い海氷が溶けて流れ出し通行不能になるまで、スニッフ教授はウェッデル・アザラシのコロニ―(群落)に毎日通い続ける。コロニーはハットン・クリフスというロス島からロス入江に突き出ている岬にある。
◎20頭が日向ぼっこ
海氷上にクラックの跡が一本あった。割れ目のくぼみに直径40センチ大の穴がポッカリ口を開け、海水が奥の方で揺れ動 いている。アザラシが歯で海氷を削り取ってつくった穴だという。付近の光景はコロニ―にふさわしい迫力があった。氷上で日向ぼっこや昼寝をむさぼるもの 20頭余。海坊主のようにのっぺりした頭、黒いガラス玉のような大きな眼。ピンと張ったヒゲ。人間より一回りも大きいのは母親。大半は生後、3、4週間は 子アザラシと一緒に行動する。一斉に頭だけ持ち上げ、目玉を光らせた。異変を探知したという仕草だ。
◎布袋で頭を覆い血液採取
「さあ、始めるか」
スニッフ教授の下で研究を続けているホフマンさん(36)とデマスター君(24)が道具箱を氷の上に下ろして言った。 箱から取り出したのはバケツ大の布袋である。2人は布袋から左右に出た支え綱を持ち、しりの方から近づく。突然、アザラシは飛び起きた。エラ型の小さな手 で体を支え、短い首を思い切り伸ばす。次の動作でしっぽを縮める。尺取り虫の要領である。黒い体毛が勇壮に光るのはいいが、方向転換は鈍い。
「バサッ」。布袋がアザラシの頭にすっぽりはまった。すかさず2人は支え綱を引っ張り込み、1人が馬乗りになる。灰色 をした赤ちゃんアザラシは「クワ―」「ウオッ」と悲しげに鳴き、哀れな母親を遠巻きにして動き回る。この時、デスター君がプラスティックの太い注射器を背 中に突き立てた。注射器に鮮血が吸い取られていく。
母親アザラシを心配して動き回る赤ちゃんアザラシ
注射器を手に後ろから近づくデマスター君
背中に注射器を突き刺し、血液採取
◎ローソクになったアザラシ
アザラシは昔、北極海にも生息した。しかし西欧人がローソク油用に乱獲し、絶滅させた。現在、南半球に1000万―7000万頭が集中しているというが、保護しようにもアザラシの生態、繁殖率、自然死亡率などデータは無いに等しい。
ハットン・クリフス一帯のスニフ博士による調査だけが目新しい。それによると、メスのうち7割が出産OK、3割が不妊症なのだ。
方法は全体頭数と子の頭数を比較する単純なもの。そのかわり、その先が難しい。同じ8頭のメスから3日ごとに血液を採り、血液中のホルモン、タンパク質などの変化過程から「30%の不妊症の」のナゾを突き止める。これが『ハットン・クリフスの学問』だ。
岬の観測小屋に水中テレビを据えて博士は授乳の生態を眺めている。アザラシのしっぽに音波発信器を付けておき、海氷下の行動範囲を調べている。「まだ何もつかめていない」と博士は言う。
◎屋根の上にお地蔵さん
クリフを離れて別の観測小屋に寄った。背中を木箱に納めて風を防ぎ、一人の男が屋根にへばりついていた。
「彼は小屋の前で飼っている4組のアザラシ親子の動きを観察しているのだが、アザラシときたら寝てばかりいるのでね」 とスニッフ教授。別の囲いには8組16頭がいる。午前1時から6時間おきに1時間ずつ、2人で屋根に座り、ガチガチ震えながら1日正味4時間観察する。ま るで『石の地蔵さん』そっくりだなと思った。
風よけの木箱に入ってアザラシの生態観察
◎2週間で食い尽される白ヒトデ
マクマード基地近くのダイビング小屋内。氷盤下の海底に大小350個の金網カゴを置き、サンゴ、クラゲ、イソギンチャ クなど20余種を飼っている。海の生物の食物連鎖を研究中だ。「大型白ヒトデに赤ヒトデが穴を開けると白ヒトデの体液が散って無数のヒトデを誘い、2週間 で白ヒトデは食い尽されて星型の残骸になる」とポール・ディントンさん(33)は説明してくれた。
海底の金網から引き揚げてきたサンゴやヒトデ
これから海底にもぐって観察開始
環境・資源問題が深刻化して、にわかに脚光を浴びてきた生態・行動学。金と時間、さらに何よりも根気と忍耐心が、この新しい領域に求められている。知ったのはこの現実だった。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
時計の針とガラスの破片で人生決まる
英語の先生がシャクルトン隊の倉庫係
「極点旅行隊の村山雅美さんの南極に人生をかけるきっかけが、中学時代に出会った英国人の先生だったという面白い話があるのを知ってますか」―今から5、6年前の土曜日。奥多摩のハイキングに出かけたとき、山仲間の松沢節夫さんがこんな話をした。
私が興味を示したので、彼は、後日、その話が載っている「緑爽会」の会報9号(03年5月15日発行)を送ってくれた。 「緑爽会」は日本山岳会の会員で自然保護に関心を抱く人たちが中心になって立ち上げた同好会である。不思議な縁だが、その会報を編集しているのが元全P研 (全国PTA問題研究会)の会員で、1980年代当時、私が教育問題の取材でお世話になった近藤緑さんだった。
この話は今では日本山岳会や村山雅美さんのサイトをはじめ、村山さん自身が書いた「地の果てに挑む」(東京新聞刊)にも要約が載っている。しかし、教育問題を取材してきた私にとって大きな衝撃を受けた不思議な話なので、ぜひ紹介したい。
◆南極になぜ行ったか
「かなり酔っ払っているので、もとより言語不明瞭、趣意支離滅裂を条件にお聞きとりください。先程、ビデオでご覧になった通りの面白くもおかしくもない南極に、なぜ私が行ったかということでも話しましょうか」
こんな切り出しで村山さんは話を始めた。近藤さんによると03年4月7〜8日に、「緑爽会」主催の甲州・桃のお花見バス ツアーに村山さんも参加、八ヶ岳の清里にある会員のペンション「ロッジ山旅」で夕食後、村山さんに話をしてもらった。その前年の11月23日、「緑爽会」 主催でスシュマ・小俣さんのシタール演奏会を開いたとき、村山さんがひょっこり顔を出し、飛び入りでマナスル遠征の話をしてくれたことで「緑爽会」とつな がった。スシュマさんは村山さんが1953年、第一次マナスル登山の先発隊で遠征したときに宿泊したネパール・カトマンズ旧家のお嬢さん。当時8歳だった が、日本人と結婚して来日、シタール演奏家として活躍している。東京芸大の非常勤講師でもある。
◆エンデュアランス号の遭難
村山さんの話はいきなり1914年12月5日に(大正3年)、南極を目指してサウスジョージア島を出発した英国のシャクルトン隊を乗せた砕氷船「エンデュアランス号」が翌年1月18日に氷塊に阻まれ、身動きできなくなった南極探検史で有名な遭難事故にまでさかのぼる。
エンデュアランス号は10ヶ月間、氷塊に囲まれたまま漂流を続けた。しかし流氷の圧力でエンデュアランス号が崩壊しか かったため、28人の隊員(うち1人は密航者)は1915年10月27日に船を放棄して海氷上で5ヶ月半テント生活を続けた。海氷が溶け始めたため 1916年4月9日、3隻のボートに乗って100キロ先のエレファント島に向け出発、1週間かかってたどり着く。ところが無人島には何もない。このままで は冬が迫り、食糧も絶え、餓死してしまう。
◆史上最強のリーダー
シャクルトン隊長は一大決心をして、隊員5人を連れて1300キロ先の捕鯨基地のあるサウス・ジョージア島までボートを 漕いで救助を求めに出る。17日かかって島に着いてからが大変。基地は上陸地点とは正反対のところにあるためシャクルトンは疲労した3人を残して山や崖を 越え、一睡もせずに36時間、酷寒の中を歩き続け、やっと5月20日に捕鯨基地にたどり着いた。当時は簡単に救助船を出せる時代ではなかった。それから 3ヶ月半後、チリ海軍のイェルコ号が救助に向かい、8月30日にエレファント島に残っていた22人は全員全員無事に救助された。
絶望の淵に立たされてもあきらめず、正しい判断と実行力に秀でたシャクルトンは、史上最強のリーダーとして注目を浴び た。そしてエレファント島の22人が、わずかな食糧で4ヶ月間も食いつなぐことができたのはストックキーパー(倉庫管理係)だったトマス・オ―ドリーズ隊 員の絶妙な食糧の管理、再配ぶりが功を奏したと高く評価された。
◆英語の先生はイギリス人
前回の追想で書いたが、村山さんの父親は学習院、母親は府立第三高女でそれぞれ教員を勤めていた。そのためか小学校から彼は東京高等師範の付属小、中学校に通っている。
「付属中学に入学したのは1930年です。その時の英語の先生がイギリス人で、全部英語だからさっぱり解らない。しかし校庭続きの林の中で英語の歌を歌ったりするような笑いに満ちた授業が楽しみでした」
その英語教師は、現在、順天堂大の敷地にあった文化アパートに住み、生徒たちを2、3人ずつ順番に自宅に呼び、お茶とお菓子を出して話をしてくれた。
◆不思議なお土産
「招待するったってお酒を飲ませるわけじゃない(笑い)。お茶とお菓子を出してくれる。そして必ずお土産をくださる。私 が頂いたお土産は意味不明のもの2つだったんですが、1つは懐中時計の長い針、1つは時計のガラスのかけら。それを箱に入れて紙に包んでプレゼントとして くれたんです。次に会った時に『どういう意味ですか』と聞いたら、先生が言うには『お前は山が好きらしいから、遭難したらこのガラスを反射させて助けを求 めろ。もし助けが来なかったら、沢へ下りてこの針で魚を釣れ』と。こう教えてくれた人が、後年分かった南極の勇士、オードリーズ隊員だったんです」
私はこの話を最初に聞いたとき、わが耳を疑った。南極で生き抜いたエンデュアランス号の隊員が日本に来て、村山さんの英語の先生だったとは。村山さんも不思議に思い、いろいろ調べたのだろう。こんなことが分かってきたと村山さんは話を続ける。
◆鼻のところに傷
「南極から帰ったシャクルトンは、海軍士官として第1次大戦に参加する。オードリーズも同じく海軍に入る。戦争が終わる と軍人はいらないから世界中へ派遣されたようですね」「彼は落下傘の教官で、鼻のところに傷があった。僕らが落下傘で木に引っ掛かったときの傷ではないか と聞いたら、先生が『イエス』と言った。分からない英語でよく理解できたと思うけれど。(笑い)何でも当時、世界最低落下傘降下記録の持ち主だそうです。 つまり鼻の傷は世界記録の勲章ですね」
当時の日本は次の戦争に備えて世界で初めて7470トンの正式航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」を建造した。ところが肝心 の航空母艦を運用するノウハウが乏しい。そこで海軍はイギリスからセンビル大佐を団長に士官10人、下士官5人からなるセンビル教導団を招いた。関東大震 災の前年、1922年のことだ。
◆オードリーズ隊員はけちん坊
「(オードリーズ先生は)几帳面な人で、10何人かの隊員が8ヶ月間も越冬して、誰ひとりとして餓死はおろか凍傷にもな らなかったのは、彼のストックキーパーの才覚によるものと言えますね。シャクルトンは本の中でオードリーズのことを『けちん坊』だと書いていますが、けち ん坊だからこそ乏しい食糧で長く持たせ、隊員の士気を保つことができたんです。考えてみると、中学生になったばかりの時、オードリーズ先生に出会ったこと で、知らず知らずに私の脳味噌に南極が擦り込まれたのでしょうね。今でも凄い人に擦り込まれたと思います」
壊れた懐中時計を捨てずに、役立てるとはストックキーパー面目躍如の話だ。もしかしたらエンデュアランス号の遭難当時、身に付けていた大事な時計だったのかもしれない。
◆エベレスト遠征隊員だったモリス先生
村山さんの南極志向に影響を与えたのはオードリーズ先生だけではない。当時の高等師範の英語教授には1922年の英国エベレスト第2次遠征隊の隊員だったC・J・モリスがいた。
「(モリス先生が)なぜ高等師範に来たかは不明ですが、その付属中学には、全国に先駆けて山岳部をつくった中学というの で『エベレストテント』と称するヒマラヤで使ったという天幕を寄贈してくださいました。私たちは『部宝』として扱い、子ども心にもヒマラヤの空気に触れる 気持ちで、夏、冬の虫干しを兼ねたキャンプを楽しみにしていました。キャンプの夜、先輩の長谷川伝次郎の『ヒマラヤ写真図鑑』を見たり、『アルパイン ジャーナル』を上級生から読み聞かされたりもしたものです。そんな中学にはもってこいの先生だと、モリスが旧友であったオードリーズを推薦されたと信じて います」
◆チャレンジ精神を失ったのか
村山さんの話を聞いていると、教師という仕事はただ知識を教え込むというだけではなく、児童生徒とかかわるなかでにじみ でてくる人間性そのものが大きな影響を与えていることが分かる。当時の高等師範の付属中学がユニークな英国人教師を雇ったことで村山さんというユニークな 人間が誕生したと考えると、教師の役割がいかに大きいかを改めて再確認させられた感じだ。
それが今はどうだ。教師採用の段階で、ユニークな発想をする人間や、ちょっと変わった人間は排除される。その原因は戦後 60余年続いた自民党の教育政策にある。私に言わせれば「アカ教師」という虫歯を抜くため管理を強化した。その結果、良い歯もダメになり、日本の学校教育 そのものが単なる受験教育に堕落してしまったと言ってよい。
この3月に日本記者クラブで、3年前に史上初の女性学長に選ばれた米ハーバード大学のファウスト学長が講演し「最近、中 国、韓国からの留学生が急増しているのに、日本の学生が減り続けているのは、チャレンジ精神を失ったためでしょうか」と問いかけている。これは米国の名門 大学でも共通する現象らしく、受験教育と管理強化の『成果』がこんな形で表れてきたとは皮肉な話だ。
◆迫力満点の授業に感動
村山さんの「地の果てに挑む」を読むと、付属中学の教師にはその道の達人を揃えていたことが分かる。1932年のロサン ゼルス五輪大会の陸上100メートルで6位に入賞した「夢の超特急」といわれた吉岡隆徳先生もいた。そして地理の教師をしていた山本幸雄先生によって、村 山さんは山に興味を抱き、マナスル、そして南極へと人生の進路が決まっていったと言ってよい。村山さんは「地の果てに挑む」にこう書いている。
「中でも印象深かったのは、自著『推理的日本地理』を教科書に使った山本幸雄先生である。軍艦での世界一周の経験談や大 陸移動説にまで及ぶ迫力満点の授業に私は感動した。山本先生は山岳部の部長だった。運動神経がなく体力も乏しかった私も、山本先生に惹かれ、伝統を誇る山 岳部に一もニもなく入部した。日曜日には丹沢や奥多摩の山々を跋渉し、三軒茶屋から藤沢まで夜通し歩いた『夜間遠足』はきつかったが有意義だった」
山に魅せられた村山さんは「山と温泉と封切りの洋画が見られる土地」という3条件を満たしてくれる信州の松本高校に1浪して進学する。そのあとのことは前回書いたことと重複するので省略するが、最後に村山さんはこんな話で結ぶのだ。
◆小田原生まれの女性と結婚
「僕に南極を擦り込んでくれたオードリーズ先生は、温泉と雪の日本に惚れ込んだのでしょう。付属に3年、旧制の弘前・山 形高校で温泉と雪を小田原生まれの奥様(日本人)と楽しんでいるうちに、世間はきな臭くなりました。俄然、ジョンブル魂が騒ぎ、旧友の香港提督に空軍か陸 戦隊への召集を懇願したが、『君の心意気には感服するが、63では無理だ。対戦に備えて語学将校の養成を頼むよ』と、心ならずも熱愛した日本を奥様・お嬢 様共々ニュージランドに渡ったのは満州事変の頃でした」
◆50年前の付属の生徒です
それから話は1980年に飛ぶ。極点旅行を終えて11年。62歳の村山さんはニュージランドの南極クラブ(観測隊OBの 集まり)に招かれたとき、「私はあのオードリーズの教え子です」と自己紹介した。参加した人たちから歓声が上がり、早速、ニュージランドに住む家族に連絡 し、一人娘と一緒に住む当時82歳の未亡人を訪ねることになった。
「『50年前の付属の生徒です。先生の南極から帰ったばかりです』と、挨拶もそこそこに奥様の記憶は明晰、羽織袴の新郎 に寄り添う結婚写真に始まる思い出は尽きませんでした。アイルランド人特有のウィットとユーモアに溢れた人柄は終生変わらなかったようです。『お庭にあな たのために世界地図の花壇をつくってくださったのを覚えている?』と語り合う先生のご遺族でした」
◆航空機ルートの確立を
「地の果てに挑む」にも書いてあるが、村山さんは「しらせ」で昭和基地を年1回往復する時代は終わり、航空機による輸送 ルートを確立する必要があると考えていた。1987年には朝日新聞、テレビ朝日の協力を得て、チリ最南端のプンタアレナスからパーマー半島にあるカルバハ ル基地を経て、英国のハレベイ基地、さらにドイツのノイマイヤ基地で給油しながら昭和基地に至る6100キロをカナダのツインオッタ―機を使って試してい る。将来を見据えて、いま何をしなければならないかを常に考え、実行に移すという力は、中学、高校時代のユニークな教師たちによって育まれたと私は思う。
偏差値の点数で進路が決まっていく今の受験教育では、村山さんのようなチャレンジ精神旺盛な人は残念ながら生まれてこない。
◆そこまでは衰えていません
その村山さんと私が最後に会ったのは2004年4月3日(土)の夜、神楽坂にある居酒屋「土筆」で、だった。「土筆」に 集まる山仲間の近藤緑さん、村山さんとは親類に当たる山中泰子さん、そして毎日新聞教育担当論説委員だった矢倉久泰夫妻も一緒だった。84歳の村山さんは 元気で、「テニスは続けているが体力が落ちてね」とこぼしていた。帰りしな昭和基地帰還の時に私が書いた記事が掲載されている神戸新聞にサインを求めた ら、村山さんは気軽にサインをしてくれた。あとで村山さんはサイン嫌いだと知り、私の大事な宝になっている。近藤さんが「ご自宅までお送りしましょうか」 と声をかけたら「大丈夫。そこまで衰えていません」と怒られたという。
午後4時過ぎ。f 16から「ふじ」に帰還
「シャボンの泡がたたない。6キロやせたよ」と村山隊長=「ふじ」の風呂で
午後5時半。昭和基地に帰還。留守部隊と乾杯
雪上車を設計した細谷隊員と感謝の握手
夏隊の佐野隊員と談笑
昭和基地の食堂で楠隊長(10次越冬隊)、松島艦長と
村山隊長、楠隊長とともに筆者
(横川 和夫 2010年7月11日)
連載ルポ「新しい南極」(12)
南極の火山・エレバスに挑戦する男
「火山の驚異」のタジエフ博士
活火山エレバス火山(3794メートル)。富士山と標高が並ぶ南極の秀峰である。青い空と白い氷に白雪の膚をきらめかせ、盛んに白煙を漂わせる姿がスコット基地から望まれる。
噴煙を吐く南極の活火山エレバス
「今回のエレバス火山ガス採取は、わが人生最大の挑戦。成層圏で仕事をするようなものになろう」
ポーランド生まれ。革命を避けてベルギーに、今はパリに住むタジエフ博士(60)が切り出すと、説明会場のざわめきが潮を引くように静まり返った。
火山ガス採取計画を説明するタジエフ博士
白髪も薄いが活力は40歳代。象牙の塔にこもるのを嫌い、自ら活火山の火口に降り、直接にガスや溶融溶岩を採取する火山学者。博士のドキュメンタリ―フィルム「火山の驚異」は、記録映画作家、探検家の一端をにじませて日本でも好評だった。
60歳の年齢を感じさせないほど元気
◎火山のガス採取を記録映画に
エレバス火山は約60年ぶりに活動を始めている。博士は情熱をたぎらせた。フランス人4人、スイス人1人を引き連れて 南極に乗り込んできた。ニュージランド南極局が経験豊かな博士にエレバス火山のガス採取を依頼したのである。一行には記者も同行していた。世紀の冒険とい うわけだ。
説明会場の基地食堂は満員。マクマード基地からはNSF代表をはじめ資材輸送を担当する米海軍の司令官、ヘリコプター パイロット、医師、火山学者のトレバス教授(米ネブラスカ大学)。ニュージランド側はニューマン・スコット基地隊長のほか、今夏、初めてエレバス火山の内 輪噴火口まで降りたというショーン・ノーマン隊員(34)、そしてクライストチャーチからわざわざやって来たトムソン南極局長も加わった。
会場にはトップが顔を揃えた。右はニューマン隊長。
タジエフ博士の左は最高司令官のバン・リース海軍大佐。
手前左はトムソン南極局長
「なぜ危険を冒してまで火山ガスや溶融溶岩を採取するのか。エンジンの排ガスを分析すれば燃焼物やその機構が分かるように、火山の爆発、メカニズムも火山ガスを調べれば分かってくる。ガスの化学変化量を通じて噴火の予知をはじめ、地殻の大変動も予測できる。将来は…」
会場の人たちはタジエフ博士の話に引き込まれていく。桜島に3回挑戦して敗退した記録を含め、博士の火口降下は1958年以来、年平均1〜4回。可能なだけ噴出孔に近づいて、空気と混合する前の生ガスを採取するのが博士の手法だ。
撮影機材を前にカメラマンと何やら打ち合わせ
溶融溶岩の温度は600〜1200度に達する。特殊なグラスファイバーを使った溶岩よけのヘルメット、ガスマスク、高 熱に耐えるアルミを塗った断熱服、絹の断熱手袋をはめ、ガス噴出孔に近づき、永年の経験を生かして開発したステンレス製の二重パイプを孔に突っ込んで生ガ スを試験管に取り込む。
「どんな姿で」と質問したら、断熱服と帽子を手にした
「こんな格好で火口に降りる」とタジエフ博士
◎溶岩湖がある活火山
説明後に上映されたエチオピアとザイールの火山調査記録映画が、博士の活動ぶりを見事に活写していた。赤い溶岩がのた うつ溶岩湖に向かって、シルバーグレーの断熱服を着た隊員がウインチで確保されながら下がっていく。隊員の足元に噴火孔が吐き出す白煙がぐんぐん迫る…。
クレーターに溶岩湖がある活火山は、エレバス火山を含めて世界に3つしかない。頂上にはタマゴ型の外クレーター。ここ から200メートル下降すると直径200メートルの内クレーターがある。その北半分が溶岩湖だ。南半分を占める巨大な噴出孔からはガスや時には溶岩が噴き 上げている。
◎危険だと計画変更迫る医師
タジエフ博士は(1)頂上近くにテントを張って待機(2)静かな時を見はからって内クレーターに接近(3)ウィンチを使って絶壁のような内クレーターを下降するという3段階の計画を発表した。
だが頂上付近はマイナス2、30度の寒さと低い気圧だ。温度差が極端すぎる。しかも最大の難関は一気にヘリコプターで3800メートルも上昇するために生ずる順応不適応による高山病である。激しい頭痛、吐き気、不眠、食欲不振は避けられない。
前年の11月中旬から頂上で生活した先発隊のギッゲンバークさんは11日間、水以外はほとんど何も食べられず、やむなく下山している。
博士の計画説明に異議をはさんだのはマクマード基地のボズウェル医師(27)だった。「一気に頂上に行くのは極めて危険です。医者の責任としてヘリのパイロットの出動は認められません」とまで言い、計画変更を迫った。
◎ガス採取計画は中止
協議は続いた。一行は山頂より1000メートル下で、まず5日間、高地慣れのテント生活に入り、12月13日に頂上に移動することが決まった。
エレバス頂上発。寒気ますます激しく、濃いガスが立ちこめる。作業は危険かつ困難」と同行記者は打電した。
私のスコット基地滞在期限がきたため、広報官のニックにその後の状況を打電するよう頼んだ。そのニックから12月30日に電報が入った。
「火山活動激しく危険増大。ガス採取計画は中止。来年の挑戦を待つのみ。ニック」
サービスに努めたニック広報担当官
共同通信東京本社のテレックスに打ち込まれた文字の裏にタジエフ博士の苦闘がにじんでいた。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
時代の反逆児・オードリーズ先生
わが道を突き進んだ冒険野郎
私は昭和基地での南極取材をした後、大阪の万国博、東京都庁、文部省を担当した。教育問題を取材したことで日本の学校教 育の在り方に疑問を抱き、記者として初めて問題意識を持って取材をするようになったことは3回目の追想で触れた。そして教育担当のデスクだった斎藤茂男さ んをキャップに3人の取材チームをつくり、官庁の発表を記事にしていただけでは真実を伝えることができない。自分たちの足で現場を訪れ、当事者から直接話 を聞いたことを字にしていくという長期連載のルポルタージュにのめり込んでいく。そうしてできたのが「教育ってなんだ」「父よ母よ!」(太郎次郎社刊)の 連載だ。
◆ボーリング取材の面白さ
「一つのことを徹底的に掘り下げていく、ボーリングしていくとその時代の社会構造、そして人間の生きざまが浮き彫りになってくる」というのが斎藤さんの口癖だった。
今、「新しい南極」を改めて読み直し、ボーリング調査という手法が地球の生成史や環境汚染の問題などを解明するために大 きな役割を果たしていることに改めて気付かされた。そして日本の学校教育に欠けているのは、1つのことを徹底的に掘り下げて追及していくなかで学ぶボーリ ング手法的学習だと思った。
長期連載のルポルタージュは取材するために時間がかかり、取材費もかさむ。そのため少ない経費で能率・効率を上げるいまの大競争時代に合わない、といったこともあって、取り組む記者が少なくなり、新聞では読む機会がなくなってきたのは極めて残念なことである。
私はルポルタージュという手法を学んだことで、ひとつの事象を掘り下げていく、つまり取材対象を徹底的に取材していく過程で浮かび上がってくる複雑で、不可思議な人間の行動、生きざまの面白さの虜(とりこ)になった。
◆エレファント島とその向こう
シャクルトン隊員のオードリーズ先生も私にとっては取材意欲をかきたてられる魅力ある人である。検索をしていたら10次 隊の越冬隊長、楠宏さんが南極倶楽部会報23号「村山雅美追悼号」に「3人のヒコ―キ野郎」という追悼文を寄せ、そのなかで「ニュージーランドの南極協会 の機関誌『アンタークティック』(23巻4号、2005年)に、数奇なオードリーズの一生が紹介されていた」と書いてあった。早速、楠さんに電話して、そ の機関誌のコピーを送ってもらった。
「アンタ―クティカ」23巻4号の表紙
その記事は「エレファント島とその向こう」=トーマス・オードリーズの人生と日記」という本の著者であるウェリントンに住む作家ジョン・トムソンが書いたもので、これが実に面白い。
◆わが道を突き進んだオードリーズ
「わが道を突き進んだトーマス・オードリーズ」と題した記事は、伝統あるイギリス社会の規範や常識を越えたオードリーズという人物の生涯を見事に描き出している。
出生の秘密に始まり、シャクルトン隊でのエピソード、村山さんが目にした鼻に残された傷の跡の原因かもしれない英空軍へ のパラシュート導入の取り組み、そして日本にやってきたきっかけなど、村山さんの講演になかったオードリーズ像を私1人の胸に収めるのはもったいない気が したので、少し長くなるが紹介したい。
シャクルトン隊のエンデュアランス号遭難を書いたさまざまな本を読むと、倉庫管理係のオードリーズは「腕っぷしは強い が、偏屈者で怠惰な男」という面と、「仲間にからかわれても殴りかかったりせず、『やめてくれよ』と静かに言うだけ」といった気弱そうな面もある「不思議 な変わり者」というイメージが伝わってくる。この記事を読むとオードリーズが出生のときから背負わされた負の遺産が大きく影響しているのではないかと思わ せる。
◆愛人に産ませた不倫の子
オードリーズの父親は事務弁護士の資格を持ち、ノーサンプトンの警察署長だった。後にワイト島の警察署長を務めたが、ワイト島にある王室の離宮、オズボーン・ハウスにビクトリア女王が滞在中は、警護を担当した。いわゆる上流社会に属する男だった。
「しかし結婚後5年たった1876年、父親は愛人をつくり、妊娠させてしまった。彼女の家も、オードリーズ家も名門だっ たため、そのスキャンダルが世間に知れたら家名にかなりの傷がつくことを恐れ、周到な準備と寛大な精神によって、この問題を世間に知られないよう始末する ことにした。父親はよく考えた末にエクス・ラ・シャぺラの町に妊娠した愛人を連れて行き出産させることにした。当時、その町はフランス領だったが、現在は ドイツに再併合され、アーヘンとなっている。1877年5月3日に秘密裏に愛人は出産し、生まれた子どもはトーマスと名付けられた。ビクトリア朝時代によ くあるドラマのように、トーマスは警察署長の妻であったグレースに引き取られ、グレースは無条件に自分の子として育て上げた」
つまり警察署長の父親は今流の言葉を使えば不倫のあげく、妊娠させてしまった子がオードリーズということになる。偽善的道徳基準が風びしたビクトリア朝時代には、こうしたことは裕福な名門一族では日常茶飯事だったのかもしれない。
◆海兵隊中尉で中国へ
オードリーズは物心がつく前の7歳で全寮制の学校に送られ、14歳で士官学校に入り、義和団事件(1900─1901年)が起きた中国で軍務につく際は、20歳代の英国海兵隊中尉になっていた。そして中国滞在がきっかけで、南極と日本に関心を抱くようになった。
海兵隊制服姿のオードリーズ(アンタ―クティカから転載)
「彼にとって特筆すべきことが東洋滞在中に起きた。ひとつは彼の乗った船が1901年に中国海岸沖で海氷によって閉じ込 められたこと。オードリーズは、その時、非常にスリルを感じたため、1910−12年のスコット隊に参加を申請した。もうひとつは日本に初めて出合ったこ とで、彼はたちまちのうちに、特に日本人の規律正しさに尊敬の念を抱くようになった」
◆船大工は豚そのものだ
南極へ向かう「エンデュアランス号」の中でオードリーズがとった生活態度もユニークだった。
南極大陸に上陸したら探検隊や科学者が横断旅行や調査に出かけていく。その間、乗組員たちと小屋で留守番をすることになる。そう想像した彼はどうしたか。
「そのためエンデュアランス号では下層階級の人たちと同じ食卓に座ることにし、そういう人たちとの密着した生活がもたらす社会的衝撃に自らを備えようとした」
その実験相手に選ばれたのがマクニッシュというスコットランド人の船大工だった。
「生き生きとした筆致でうまく書かれているオードリーズの日記によると、オードリーズは確かに大きな衝撃を受けたよう だ。マクニッシュは食事中に椅子に座ったまま、後ろに椅子を傾けて、船の丸窓から(タネや骨を)吐きだしたり、歯にはさまったものをとるためスースーと大 きな音を立てて息を吸い込んだり、マッチ棒を削って楊枝代わりに使ったり、グリンピースをナイフですくって食べたりする習慣があり、しばしば日記でやり玉 に上げられている。オードリーズは、マクニッシュを『あらゆる点で豚そのもの』だと思った。しかし、オードリーズは自分にも欠陥がないわけではないことを 認めるとともに、たぶんマクニッシュの方もオードリーズのことが気に障っているのではないかと考えた」
◆あだ名は「食糧泥棒」
このようにオードリーズは他人に気を使う繊細な神経の持ち主のようなのだが、シャクルトンや副隊長のワイルドに、ガミガ ミと文句ばかり言う厄介者という評判を自らつくってしまった。指揮官であるシャクルトンの人間を見る目の確かさ、欠点や長所を見抜いて巧みに人を操る力は 見事で、評判の悪いオードリーズを食糧配給の責任者にするのだ。
「シャクルトンは、倉庫の貯蔵品が乏しくなってきたため、規律正しく、信頼できる人物としてオードリーズに目を向け、配 給の責任者にした。シャクルトンに対する下級船員からの不可避の批判をそらすたことも狙いだった。オードリーズは期待された通り、真の兵士のように重責を 担い、悪口に耐えた」
悪口の極めつけは「食糧泥棒」というあだ名をつけられたことだった。しかし「もしも彼の出生の秘密を知っていたら、もっとひどいものになっただろう。しかし乗組員たちは知らなかった」と書いてある。
◆飢餓状態で共食いの話も
シャクルトンら6人が救助を求めて出発した後、エレファント島に残されて4カ月の間、救助を待ち続けた22人の隊員同士の葛藤、エピソードは壮絶だ。
食糧が乏しくなってきたとき、アザラシ、ペンギンなどが生活の糧になっていく。アザラシなどの確保をめぐって副隊長のワイルドとオードリーズは激しく対立、陰ではひそかに共食いのことまで話し合われた。
「こういう動物たちは毎年北に移動していくことを知っていたオードリーズは、屋外がどんどん自然の冷蔵庫になっていく状 況の中で、1頭残らず殺すべきだと主張した。一方ワイルドは、シャクルトンが救助船とともにすみやかに戻ってくると信じており、差し迫って必要な分だけ殺 すことを選択した」
結果は救助隊がやってくるまでに4カ月もかかり、副隊長のワイルドがオードリーズの主張を採用しなかったため、22人はもう少しで餓死するところだったのである。
◆最初の共食いの対象者に
「オードリーズは、どういう事態になるかという分析では全く正しかった。シャクルトンが4カ月余り後に、やっと戻って来 た時、なんとか生き残っていた者たちは、ボロをまとい、意気消沈し、腹をすかせた一団になっており、餓死寸前で人肉の共食いのことまで話し合っていた」
この共食いの話は年老いてからもオードリーズを苦しめたようである。
「忘れられていた探検隊が奇跡的に生還し、その大喜びの中で、そのことはすべて忘れられてしまった。しかしオードリーズ が老齢になってから、共食いの話が再び彼につきまとうようになった。というのもエレファント島の生還者の1人(確認はされていないが、おそらく写真家、フ ランク・ハレーだろう)が、オーストラリアからオードリーズに手紙を送り、その中で、共食いの最初の対象者はオードリーズにするという筋書きができていた と告白したからだ」
◆パラシュート導入で空軍に貢献
英国に生還後、第1次大戦で仲間の多くが出征していく。オードリーズも海兵隊に出頭したが、40歳の少佐にポストはな かった。それでも彼は陸軍航空隊(RFC)で働きたいと主張、軍当局は気球監視官ならどうだと提案した。気球監視官になるにはパラシュートの使い方を習得 しなければならず、オードリーズは怖気づいて断るだろうと推測した。ところがオードリーズは引き受けた。そして今度はパラシュートに情熱を傾けることにな るのだ。
「パラシュートの歴史でオードリーズは、パラシュートの開発段階ではなく、英国空軍にパラシュートを導入させる上で、ある意味で先駆者のような最も責任ある役割を果たした人物とされている。その業績を評価して空軍は、大英帝国勲章と空軍十字章の2つを授与した」
パラシュートは今では戦争映画にも登場し、安全性に疑問を抱く者は1人もいないほど軍隊では必需品になっている。だが第 1次大戦当時、パラシュートは開発途上で、陸軍航空隊と海軍航空隊が統合されて新設された英国空軍では「パラシュートは男らしくない」「戦闘を回避するの を促すことになる」といった理由で、パイロットたちが墜落死を防ぐために必要だと訴えても頭の固い軍当局は拒否していた。英国では1917年だけでも訓練 中のパイロットが命を失った事故が800件も起きていた。
◆ブリッジタワーから飛び降りる
南極で餓死寸前まで追い込まれ、命の大切さを実感したオードリーズは、事の重大さを把握すると、すぐに行動に出た。
「オードリーズはパラシュートを見た時、その使用に正当性があると認識していた。そこでガーディアン・エンジェルという パラシュート製造業者の協力を得て、ロンドンのブリッジタワーから、わずか45メートル下を流れるテームズ川に飛び降りるという劇的手法で安全性を証明し たのである。これはパラシュートを使って自発的に飛び降りた高さとしては当時の世界記録であり、その後、何年間も記録は破られなかった」
ロンドンのブリッジタワーからパラシュートで飛び降りる(アンタ―クティカから転載)
オードリーズは南極探検でマスコミを利用する方法をシャクルトンから学んだのだろう。飛び降りることを事前に新聞社に連絡していた。
「オードリーズはデーリー・メール紙に事前に、この飛び降りについて情報を提供しておくという手法を使って、派手に扱ってもらうことに成功した。この結果、海兵隊当局は、その見解によれば『ひどく統制がきかない』将校が1人、海兵隊にいることを知るに至った」
◆軍法会議にかけると脅される
パラシュートの使用が正当だと考えたウィンストン・チャーチル(当時は軍需相)はオードリーズをパラシュート検討委員会 の事務局長に任命し、パイロットたちは、単座の戦闘機にパラシュートを装備するよう求めた。しかし軍当局が躊躇しているうちに第1次大戦は1918年に終 了、正式に英空軍に装備されたのは7年後の1925年になってからだった。
「オードリーズは、英空軍十字章をパイロットでないのに受章した最初の人物であり、ロンドン・タイムズ紙では、パイロッ トを守るという輝かしい仕事をした人として紹介されるなど、輝かしい功績で栄誉を受けたにもかかわらず、戦争省は、派手なキャンペーンや報道機関を前にし たタワーブリッジからの降下を記憶していて、彼を辞めさせる決定をしたのである。オードリーズは後に、『辞任せよ、さもなければ軍法会議にかけられる』と 通告されたと述べた。彼は何も言わず静かに引退した」
ニューヨークの自由の女神像から飛び降り着水(アンタ―クティカから転載)
村山さんが気付いたオードリーズ先生の鼻の傷には、パラシュートの装備を求めた英空軍パイロットたちの悲壮な叫びが刻み込まれていたのかもしれない。
◆教え子の日本女性と結婚
オードリーズはその後、パラシュート製造会社であるガーディアン・エンジェルに雇われ、パラシュート普及のため欧州各国 やアメリカを訪れた。そして1921年、パラシュートの専門家であり、地上副指導者として海軍少佐となり、日本の帝国海軍を指導する使節団の一員として日 本を訪れる。その使節団の任務は1923年に終了した。
「オードリーズは日本と日本人に敬愛の情を抱いたため、日本を離れたくなかった。彼の個人的人生は、幸せな結婚生活ではなかった。妻に先立たれ、英国には世話をしてくれる人に娘を預けていた。彼には英国に戻る意思はなかった」
日本で数年間、ロンドン・タイムズの特派員として記事を書き、1年は英国大使館で働いた。1930年に入って英語教師の仕事もして、1932年には教え子と結婚、1936年には女の子が生まれ、ダフニー・オード・ルイーズ・リーズと名付けられた。
「(結婚した相手の)彼女はかなり若かったが、幸せなカップルだった。ニュージーランドをはじめ世界各地を広範に回る新婚旅行をした」
村山さんがニュージーランドに住む夫人に会った時、夫人は82歳だった。それから逆算すると結婚当時、オードリーズは55歳、夫人は34歳となる。村山さんがオードリーズのアパートを訪ねたのは結婚する2年前だから、当時、オードリーズ先生は独りだったかもしれない。
「彼らの快適な生活は1941年に崩壊した。米国が最も恐れていた日本の膨張政策(それは、中国や満州でもっとも早くか ら証明されつつあった)が、太平洋を越えて爆発したのだ。オードリーズは家族とともに脱出するようアドバイスを受けており、真珠湾攻撃の数日前に船で日本 を離れた。2つの家と預金口座を放棄したが、強制収容されることは免れた」
◆メッセンジャーボーイに
ニュージーランドでの生活は当初は楽ではなかった。妻が日本人であるため拘禁すべきだと主張する当局者もいたが、半年後に定住が許可された。
「彼らはウェリントンのザテラスにある小さなフラットに落ち着いたが、そこでは『目立たないように監視』されていた可能 性がある。やがてオードリーズは、栄光ある人生では初めて、相対的に貧しい生活に直面し、倹約しながら、アイランドベイの小さな家を購入する頭金を貯金し た」
仕事は、通信教育学校のメッセンジャーボーイで、安いスニーカーでピューピュー風を切りながら自転車を走らせる姿は、街の人たちの眼にとまる存在になった。この時の彼は65歳を過ぎていたと思われる。
「スピードと興奮を愛する性格は変わらなかった。そしてすぐにアイランドベイからウェリントンまで最も早く行く方法を見 つけた。それは路面電車やトラックの後ろにつかまりながら走ることだった。彼はあまりにもしょっちゅう警察に通報されたため、警察当局は彼の自転車からペ ダルを外すと脅したほどだった」
◆ラジオ放送劇に出演
やがて彼はサザンクロス紙の子ども向けコラムに自分の体験をガリバーというペンネ―ムで書き、ラジオ放送劇にも出演した。
「彼の語り口は非常に評判がよかった。彼の片方の目はいつも南、つまり彼にとってその能力が最大限試された冒険を行った 南極に向けられていた。彼は1958年に亡くなるまで、積極的にニュ−ジーランド南極協会とかかわった。彼が死去する少し前、ニュージーランドのアンティ ポディ−ズ諸島の小さな島に彼の名前が付けられた。この何とも面白い男が、この地域で獲得した地位を認められたのである。夫人は彼のカトリックの信仰を受 け入れ、1982年に死去した」
◆複雑な人間関係
「アンタークティック」の記事は、これで終わっている。ところが英文版のウィキペディアにはトーマス・オードリーズ先生の出生について、さらに具体的に詳しく書かれていた。要約すると次のようなことになる。
愛人の名前はアダで、彼女の父親はグラマー・スクールの校長。名前の前に聖職者用の敬称が付いており、牧師などの聖職者 だったようだ。当時25歳のアダはアーヘンにあるオードリーズの父親の兄弟の家で出産した。署長一家は裕福で、署長公邸に何人かの召使と生活していた。父 親の妻・グレースは生まれたトーマスを自分の子として育てることに同意、さらにアダの甥のゴッド・マザー(洗礼時の名付け親)にさせられた。これはグレー ス、子どものトーマス、アダが定期的に会うのを不審に思われないよう、その「隠れ蓑」とするためだった。トーマスと実の母親のアダ(1890年に事務弁護 士と結婚)は、アダが1932年に80歳で死去するまで連絡を取り続けていた。1924年に未亡人となったグレースは、1929年には、アダとその夫と一 緒に生活していた。
◆想像力をかき立てられて
これを読んで私の頭の中はさまざまな思いが次から次と駆け巡った。不義の子をわが子のように育てることを了承させられた 母親、グレースの心境は…。裏切られた夫に対する思いは…。女性の人権などという発想がなかった時代だから、夫の命令に従うしかなかったのだろうか…。幼 少期から母親に連れられて親しく会って話をしていた女性、アダが自分の生みの親だと気付き、それがはっきり分かったときのオードリーズ少年の驚きは…。答 えは自分の頭で想像をはたらかせるしかない。そうした複雑な人間関係に苦しみ悩んだオードリーズ青年にとって、航海中に突然、目の前に現れた真っ白な氷塊 の世界は、全てを吹き飛ばすほど威力があったのかもしれない。そしてスピードと酷寒の南極の世界にのめり込んでいく。オードリーズの日記が生き生きとして 描写が鋭いと言われているが、その文章力は幼少期から生みの母親と手紙のやり取りを続けるなかで培われたような気がしてならない。さらに不思議でならない のは、グレースが未亡人になって5年後にアダとその夫と一緒に暮らし始めたことだ。計算すると、その時のアダは77歳になっている。グレースが何歳だった かは分からないが、恐らく80歳を超えていただろうと思われる。それほど互いに共感、理解し合えたのか、それとも金銭的な取り決めがあったためなのかもナ ゾだ。そのアダはそれから2年後、80歳で死去するのだが、偶然の一致なのか、その年にオードリーズは35歳の日本人女性の教え子と結婚しているのであ る。
◆時代に反逆した冒険野郎
オードリーズが生まれた1870年代はビクトリア朝(1837〜1901年)でも中期で、産業革命による経済の発展が成 熟した大英帝国の絶頂期であるといわれている。しかし、その繁栄の裏には売春、児童労働、植民地主義が横行し、「ビクトリア朝的」という用語は、しばしば 偽善的な道徳規準などといった幅広い意味合いを持っている、と言われている。
とするとオードリーズは文字通り、ビクトリア朝時代を象徴するような社会的背景を抱えながら生まれ、その時代に反逆することで人生を全うした真の冒険野郎ではなかったのか、と思えてならないのである。
シャクルトン隊員のオードリーズ(英文ウィキペディアから転載)
(横川 和夫 2010年7月18日)
連載ルポ「新しい南極」(13)
南極点で地球最後の日を体験
半球ドームの新基地完成
じわーっと押し寄せる偏頭痛。そして吸っても吸っても吸い足りない酸欠状況が重なって、南極点基地第一夜はほとんど眠 れなかった。ベッドで寝返りをうっただけでも、深呼吸をしないと次の呼吸までが苦しくなる。苦しまぎれに呼吸数を数えたら1分間に60回。1秒に1回だか ら激しい運動と同じだった。
「酸素がなくなる地球最後の日とはこんな感じかな」「極点なんて2度と来るところじゃないな」―ぶつくさ考えているうちに夜が明けた。
「朝食だぞ」。食卓に向かったが、前夜に食べた肉塊は胃袋にそのまま残っている。食欲どころではない。体を動かそうものならムカムカこみ上げてくる。重い頭を抱えてトイレに走った。「グッドモーニング」と皆元気な声をかけてくる。こちらは声を出すのがやっとこさだ。
上空から見たアムンセン・スコット基地の全景(1974年12月)
◎天井の角材に亀裂
飛行機で4時間半のところに南極点基地はあった。標高2800メートルだが、気圧が平均680ミリバールと平地の3分 の2。そして何よりも空気の薄さが『新参者』を高山病に陥れる。しかし1週間もすれば体が順応して、ケロリと治る。人間の身体の機能は人知を超えて不思議 なものだが、2泊3日の旅行者にとっては『苦痛点』としか言いようがない。
「アテンション・プリーズ。現在の室内温度は24度(F)。氷が溶け出して危険だ。基地入り口のドアを開け放して冷たい空気を入れるように」―基地隊長のウオラックさんの声がスピーカーで基地全体に響いた。
18年前に建設された極点基地は降雪と沈下のため既に10メートルも雪の下。廊下の天井を支える30センチ角の角材も雪の重さで真ん中に亀裂が入り、いまにも折れそう。食堂の床も大きく傾いている。
ミッシ、ミッシ。最後のあがきに似た不気味な音。建物全体がいまにも壊れそうな恐怖感に取りつかれた。
雪の重みで沈む旧基地の廊下。案内するフライヤー君
◎6年がかりで完工の新基地
「君は旧基地に泊る最後のお客の1人だ。われわれは1月9日落成式をした後、新基地に引っ越すのだ」と、ウオラック隊長はうれしそうに言う。
新基地の落成式を前に雑然としている南極点
その新基地は旧基地から1キロ離れた雪面上に既に完成し、最後の仕上げを待っていた。新基地の中心部は、大阪万国博の フランス館を思わせるアルミ製の大型半球ドーム。その左右に全長300メートル、かまぼこ型スチールドームが接続されている。建物の重みで沈まないよう に、固まった雪を粉々に砕き、ブルドーザーで踏み固めての敷地整備に2年。71年10月から枠組みに取りかかり、6年がかりで完工した。
新ド―ム基地の風上は雪で埋まっていた
風下は新基地のアルミ板の新しさが分かる
◎耐用年数は15年
「氷点下40度での屋外作業は実に大変だった。180人の作業員は凍傷にかかりながら頑張った」と案内役の建設作業現場マネージャー、ロバート・フライヤー君(26)の説明。彼は米国が誇る南極探検家、バード少将の孫だという。
直径50メートル、高さ16メートルの大ドーム。その下には2階建の建物が3つ。左は研究室兼居住室。奥が図書館と無 線室。右が食堂、娯楽室、集会場など。中央の広場はフィールド作業もできる仕組みだ。長いトンネルを中心に食堂、居住棟などが迷路のように枝分かれしてい る旧基地とは対照的である。
最後の仕上げに向かう作業員たち
「これは米国の建築界の粋を集めて設計された。球型ドームでは外界の自然条件に左右されずに野外研究ができるんだ。かまぼこ型ドームは風が積雪を吹き飛ばしやすいしね」
だがロバート君の話だと耐用年数は15年こっきり。1990年にはこれも雪下に没するという。
◎サポートは海軍から民間会社に
長さ300メートルのかまぼこ型ドームの3分の1はディーゼル油貯蔵室で、残り3分の2には、生物研究室兼医務室、 ディーゼル発電室(250キロワット発電機3基)、ガレージ兼作業室と計3棟の建物が納まっていた。この新基地に越冬するのは隊長以下11人のサポート隊 と10人の科学者の計21人。
サポート隊は昨年までは海軍だったが、今年から民間会社の「ホルムズ・ナーバス社」に切り替えられ、医師もコックも同社の社員である。
民間人の起用は2年前からサイプル基地、そして昨年はハレット基地で行われ、極点基地は3番目。18年間続いた海軍部 隊の極点からの『撤退』。その背景には米国の軍事費削減が大きく影響しているのだろう。が、20年近く積み重ねられた経験と実績は、軍隊を必要としないほ どに南極での人間の居住圏を拡大した。そう言えないだろうか。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
南極点基地の女医が乳がんに
展開された壮絶な人間ドラマ
35年前、私は閉鎖直前の南極点にあるアムンセン・スコット基地に2泊3日の滞在をした。1泊目は寝返りをうっただけで も肩を大きく上げて思い切り深呼吸をしなければ息することが苦しく、朝まで眠ることができなかった。このことは鮮明に覚えている。ところが2泊目は全く記 憶にないのだ。段ボールの奥から出てきたメモ帳をチェックしていたら、こう書いてあった。
「2日目の夜。頭は痛くなく午後9時ころ寝た。翌朝、午前4時ころから頭が再び痛み出した。頭が痛いのにハウスマウスを やらされた。食器洗いと台所の後片付けだが、『どうにでもなれ』と思ってやっていたら頭の痛いのが消えた。午前10時から新しい基地の建物の写真を撮りに 行く。雪の下に埋まっている旧基地の廊下という廊下には氷の結晶がこびりついている。触るとカラカラと金属片のような音を立ててこぼれ落ちる。旧基地から 新基地まで約1キロ。『汗をかくなよ』と注意され、ゆっくり、ゆっくり歩く。足を動かす度に『キュッ、キュッ』と氷の道が鳴る。共鳴を起こすのだろうか。 その音が下の方まで響いていく。不思議な感じだ」。
◆新基地は油圧ジャッキの高床式
新基地の半球型ドームの写真を撮ったことは覚えている。しかしハウスマウスをしたことを思い出そうとしても出てこない。 酒を飲み過ぎ、二日酔いで記憶喪失した状態に酷似している。つまりわずか4時間半で高度2800メートルの南極点に航空機で訪れたため高山病に陥り、酸欠 のため脳の記憶装置が一時機能停止したのではないかと思う。
私が南極点を訪れた当時、完成したばかりだったドーム型新基地は、今は影も形もない。耐久期限がきたため雪に埋まった部 分を掘り起こして解体し、その隣りに新しい基地の建物が建っている。インターネットで検索すると、たちどころに新基地の建物の写真や建設経過をはじめ半球 ドーム型旧基地の取り壊し状況の写真まで出てきた。
半球型ドームの旧基地と新基地(2007年10月、南極ニュースから)
解体中の半球型ドーム基地(2009−10年、南極ニュースから)
ドーム基地の最後の断片(2009−10年、南極ニュースから)
新基地は1992年、設計に取り掛かり、99年から建設を開始、2008年1月に建物が完成、竣工式を行った。建物が雪 で埋没しないような工夫が施されている。二階建ての建物は橋脚で支える高床式で、雪が床下を高速で吹き抜けていく仕掛けになっている。側壁の下部も斜めに なっていて、その角度も風速の強弱により変更できる。また橋脚の高さを油圧ジャッキで調節できるため、建物の重みで沈むところが出ても、床は傾くことがな いという。
高床式の新基地全景(2010年2月、南極ニュースから)
◆極点でニュートリノ観測も
新基地の建設で収容力も増し、2010年は47人が越冬中だ。南極点でしかできないさまざまな大型研究も進行している。 極地研ニュースなどによると、2000メートルの深さの氷床に数千個の光センサーを埋めて、銀河や超新星から地球を貫通して飛んでくるニュートリノの観測 も進められている。
南極点は極度に乾燥しているため大気中の水蒸気に吸収されやすい電磁波の観測には最適の場所だという。北アメリカの9つの大学や研究機関は2007年2月に口径10メートルの巨大な電波望遠鏡を南極点基地に設置して、宇宙マイクロ波背景放射の測定をしている。
オーロラ観測でも南極点は高緯度オーロラを観測できる数少ない場所だ。太陽から吹き付ける高速のプラズマ流と地球の磁場 との相互作用の結果が直接反映されるオーロラの観測には最適だという。国立極地研は1997年から2005年まで全天オーロラ撮影カメラを南極点に設置し て、日本からの遠隔操作で観測、5時間にわたって形や発光輝度が変わらない特異なオーロラを発見している。2008年には名古屋大高等研究院と米国シエナ 大学も加わり、2010年1月には2台目の高感度カメラを備えた全天観測装置を設置して、従来、撮影が難しかったオーロラの構造を詳細に分析することに挑 戦する。
◆極点基地の女医が乳がんに
ところで南極点で展開された壮絶な人間ドラマについて記しておきたい。8回目で紹介した南極点のアムンセン・スコット基 地で越冬、サウナに入った後、素っ裸で酷寒の屋外に飛びだし、氷点下100度Fを体感してスリー・ハンドレッド・クラブの会員になった女医、ジェリ・ニー ルセンに起きたことだ。
南極点のメモリアルポ―ル前でのニールセン女医(南極ニュースから)
実は彼女は、この時、乳房のしこりが右の腋の下まで腫れて痛み、乳がんではないかという不安を抱えていたのだ。3月初め に気が付き、様子を見ていたが、しこりは大きくなり、痛みも収まらない。ついに彼女は一大決心をして、アメリカにいて南極大陸の医療関係を統括する責任 者、ジェリー・カッツ氏にメールで相談した。彼女の著書「南極点より愛をこめて」から引用する。
◆自分で切除すべきでしょうか?
「重大な問題が起きたので、アドバイスをいただきたいと思い、メールを送ります。健康に関する問題ですのでマル秘扱いでお願いします。
基地が冬季閉鎖に入って1カ月後、わたしは乳房に腫瘤(しゅりゅう)を発見しました。最初は右上四半部にできたビー玉大 の小結節でした。嚢胞(のうほう)ならそのうちに消えるかと思っていましたが、逆に増大してきています。2ヶ月間の間に、最初の小結節の下に大きな腫瘤が できました。現在の大きさは4センチ×5センチです。小結節は当初と変わりなく、部位も比較的固定していて、乳頭の方向へ続いています。腫瘤の境界は不整 形で、過去1カ月間は増大していません。また、右腋下に軟結節が発生している可能性があります。右腕に痛みがあります。しこりが消えてくれることを願って いましたが、そうはならないようです。(中略)短刀直入にお尋ねします。あと5ヵ月。じっと待つべきでしょうか?それとも自分で自分にメスを入れて腫瘍を 切除すべきでしょうか?」
11月下旬にマクマード基地から第一便が飛んでくるまで、医師の仕事を続けていられるだろうか。もしそうでないなら、患者が出たら大変なことになると訴えたのである。
◆固くて腫瘤から液体採取できず
越冬隊の仲間40人にはメールを出したその日に、基地全員のミーティングを開いて実情を説明した。2日後の6月12日、 救急チームの訓練を受けた電気技師に頼んで腫瘤から液体を採取しようとした。しかし太い針の注射器で4回突き刺したが、固くて液体は採取できず、失敗に終 わった。
一方、ジェリー・カッツ氏の指示で、インディアナ大学で乳がん専門の女医のキャシー・キャシーが担当医となった。何回か のメールのやり取りの結果、針生検で診断を確定した後、仮に乳がんと診断されたら化学療法で腫瘍を小さくして手術をするという方針が決まった。問題は針生 検をだれがやり、その結果をどうやってキャシーに届けるかである。
極限状態に置かれると人間はさまざまな能力を発揮するようにできているようだ。
「針生検は6月21日月曜日に行われることになった。冬至の日だ。その日にはデンヴァ―の医師団と南極点の診療所をビデ オ中継でつないでおいて、腫瘤から組織を採取し、スライドグラスに移し、染色し、その画像を特別製のビデオ顕微鏡を通じてアメリカに送信する計画になって いた。準備期間は数日しかなかった」
◆生検採取をビデオ電送
ニールセンは生検を自分自身でやり、助手に溶接工のウオルトを任命、大工の棟梁、ジョンソンにウオルトの手伝いを頼ん だ。染色はベトナム戦争中に特殊工作員だったケンが行い、ビデオ電送と衛星回線接続なども物理学者たちが手伝い、何とか間に合わせることができた。その様 子を仲間の1人はメールで次のように書いている。
「いよいよ生検が始まりました。最初の処置はドクターが自分でやりました。われわれは手術台の頭の部分を持ち上げてドク ターが見やすいようにしただけで、あとはドクターが立派に仕事をしました。ほんとうに、まるで他人の手術をしているように落ち着いた態度でした。ドクター は何度か組織を採取して注射器をローブに渡したあと、一休みして患部に氷を当て、ソーダ水を飲みました。次はウオルトの出番です。ドクターは手術台にから だをあずけて、ウオルトにあとをまかせました。ウオルトが組織を採取するあいだ、ドクターはとてもリラックスして見えました。ドクターとウオルトは前の日 にいろいろな果物や野菜を使って練習を積んできたのです。ウオルトの言葉によれば、注射針を刺したしこりの感触は、練習に使ったサトイモに一番似ている、 ということでした。ウオルトの仕事が終わると、さらに大量の氷を2分間ほど幹部に当てた後、再びドクター自身が生検をしました。ケンがプレパラートをつく るようすをリーサがたっぷりビデオ撮影したところで、ようやく、デンヴァ―の専門家から標本の数は十分だと連絡が入りました」
第1回目の生検手術の様子(1999年6月21日、「南極点より愛をこめて」から)
◆医薬品を極点に空中投下
だが生検染色の画像が鮮明でなかったため、診断に手間取った。一方、全米科学財団(NSF)と南極サポート・アソシエー ツは、化学療法のための医薬品や解像度の高いビデオ顕微鏡などの空中投下の検討を始めた。飛行機は氷点下50度以上でないと着陸はできても離陸は不可能 だ。7月の南極点は暗黒の世界で、気温は氷点下57度から68度の間を上下していた。最終的には7月10日、6個の荷物を空中投下することになった。
気温氷点下66度。風速は毎秒6メートルで、空中投下中止の秒速10メートルまでには達していなかった。半分に切断されたドラム缶は材木やジェット燃料などを入れた「かがり火」として33メートル間隔に並べられ、投下ゾーンができた。
「音より先に機影が見えた。フットボール・フィールドの半分もある巨大なスターリフタ―輸送機が赤と緑の航行灯を付け、 闇夜に白い尾灯を輝かせながら、高度200メートルまで近づいてきた。コックピットの照明は消えていたが、開いた貨物ドアにはキャビンから漏れる光で投下 クル―の姿がはっきり見えた。両手足をドア枠に突っ張って身体を支えわたしたちを見下ろしている。わたしは興奮と同時に、この南極で自分たち以外の人間を 目にするショックを感じた。ほかの惑星から友好的な宇宙人を見上げているような感覚だった。あとで聞いたら、みんな同じように感じたという。が、その場で は、深く考察する余裕はなかった」
◆増殖の速い乳がんと診断、
それから2週間後の7月23日、乳がんであるとの診断が出た。投下された薬による化学療法を始めることになった。薬を1時間で点滴するのを毎週1回3週間続け、そのあと1週間休むというサイクルだ。
「今夜、がんだとわかりました。進行性で増殖の速いがんです。それしか、いまはわかりません。余命が1年なのか20年な のか、ここにいるあいだは専門医にも判断が付かないのです。南極を出て診察を受けたとしても、よほど悪化してあちこちに転移している場合以外は、はっきり 分からないのだそうです。わたしの感じでは、すでにリンパ節転移があると思います」
航空機で投下された最新鋭の薬剤を使っての化学療法が続けられるが、状況は一進一退で、全米科学財団と南極サポート・ア ソシエイツは、早期の航空機による救出作戦の検討を始める。その一方ではマスメディアが情報をキャッチして報道を開始し、全米の人たちが南極点の女医の容 体に関心を寄せてくる。そうした中でニールセンの精神状態も不安定になってくる。
◆絶望しています
「正直に言います。絶望しています。治療だって、人生の最後にやることとしては無意味で馬鹿げていると思えてしかたあり ません。あるポイントを越えたら、あとは同じなのに。わたしのイメージでは、乳がんは何度も胸水がたまり、骨に転移し、脳に転移し、放射線のせいで肺炎を 起こし、外見も醜くなっていく病気です。セクシャリティーを失うとか、肥満体になるなど、考えたこともありませんでした。それがわたしの運命なの? 乳が んにかかったら、みなそうなるの? 手元の本には恐ろしいことばかり書いてあります。第一、なぜがんばらなくてならないの? 7年3ヵ月と4日間生存でき た、とかいう数字があるから? 今は混乱してまともに考えることもできません。でも、落ち込んでいるわけではありません。なぜがんばらなくてはならないの か、納得できないだけ」
キャシーに宛てたメールでニールセンは胸の内を吐きだすのだ。これに対してキャシーは長いメールを返す。これはその一部だ。
「あなたの喪失感はよくわかります―と言ってあげられたらどんなにいいかと思いますが、それでは嘘になってしまいますよ ね。患者さんたちから日々こういう感情を見せてもらう立場にある自分は貴重な経験をさせてもらっている、と思います。患者さんからの贈り物、と言うべきで しょうか。人生は何の保証もなしに天から与えられた時間なのだと言うことを、いつも思い知らされます。あなたはいま、いやおうなしにその事実を突きつけら れているのですね。人生で何が大切なのか忘れそうになったとき、わたしは患者さんのおかげで原点に戻ることができるのです」
◆感謝の気持を一生忘れない
こんなやりとりを繰り返す中で、救出作戦の航空機2機がニューヨーク州の基地からマクマード基地に到着。そのうちの1機 が天候の回復を待って10月16日に南極点に着陸し、ニールセンを乗せてマクマード基地へ。例年より2週間も早い南極入りだった。そしてその日のうちにク ライストチャーチに帰着。ホテルに一泊した後、カメラのフラッシュを浴びることなく航空機でインディアナポリスに運ばれインディアナ大学付属病院に入院し た。主治医のキャシーにより様々な検査を受けた後、乳房温存術の手術を受けた。
「手術後、わたしはさらに4カ月の強力な化学療法を受け、その後8週間の放射線治療を受けた。放射線治療は、ずっと昔に 買った海辺の別荘に近いノース・カロライナの病院で受けた。髪は少しずつ生えてきている。キャシーが予言したように、以前より色が濃くカールの強い髪だ。 まだ疲れやすいが、週ごとに体力は回復してきている。がんに対する考え方は、アメリカに戻ってから大きく変化した」
「2000年4月、わたしは車を運転してインディアナポリスまで行き、乳房X線検査と骨シンチグラフィーを受けた。キャシーからは、いまのところがんの再発はない、と嬉しい結果報告があった。先のことは、経過を見守るしかない。
わたしは現在、ほかのがん患者を助けるというすばらしい機会と責任を与えられている。私は希望を見出し、『心安らかに生 きる』ことを知った。病気を受容し、人生を受容し、未来を受容して生きることを。それを手助けしてくれたのは、親しい友だちや家族や重い病気にかかった人 が、みんなこうしたサポートを得られればいいと思う。私の場合は、とても恵まれていた。命を賭して救助に来てくれた人々がいたし、全米科学財団や南極サ ポート・アソシエーツ、そして合衆国政府が救助計画を後押ししてくれた。救助する義務があったわけではないのに。感謝の気持ちは一生忘れない」
◆2009年6月23日死去
ニールセンの書いた本は、これで終わっている。いまどうしているのだろうと思い、検索したら2009年6月23日、マサチュセッツ州の自宅で死去。57歳という記事が出てきた。
彼女は手術を受けて一時回復したが、2005年にがんが再発し、肝臓と骨に転移した。にもかかわらず彼女は乳がんの早期 発見を訴える講演旅行を続け、香港、ベトナム、オーストラリア、アイルランド、アラスカ、ポーランドを訪れた。そして2006年には20年前に休暇中のア マゾンで知り合った男性と結婚した。彼女は23歳の学生時代に結婚して三児の母親となったが、夫の虐待とストーカーに苦しみ、心を穏やかに保つために南極 点の医師を志願したのだった。再婚して2年後の2008年10月にガンは脳腫瘍に転移したことを明らかにし、亡くなる3カ月前の09年3月まで活動を続け ていたという。
手術後、講演旅行で活動中のニールセンさん(南極ニュースから)
シャクルトンの時代だけでなく、いまでも南極ではさまざまな人間ドラマが進行中なのである。
(横川 和夫 2010年7月26日)
連載ルポ「新しい南極」(14)
南極から撤去された小型原子炉
11年使って冷却水にじみ出る
氷雪の大陸南極で、原子力発電所が稼働し、また閉鎖された事実を知る人はいるだろうか。既に何回か触れたように、南極のエネルギー源はディーゼル油でまかなわれている。何かがこの間、大問題になったに違いない。
このナゾに迫る機会に恵まれただけでも、南極に足を踏み入れる値打ちはあった。いま頭をよぎるのは、原子力発電使用を国威発揚に利用した米国が、今やその汚染源としての不安と安全性への疑問に目覚め、一時代前のエネルギー使用に戻った事実の重みである。
◎「危険 放射性物質」の表示板
マクマード基地の外れ。お隣リのスコット基地との境界にもなっている見晴らし丘(標高220メートル)の中腹に原子力発電所の廃墟があった。
見晴らしの丘中腹にあった原子力発電所廃墟
緑のペンキを塗った3棟の建物とコントロールセンターのある1棟を除き、廃墟と化した無人の小屋だ。
砂ぼこりを浴びた半開きのシャッターを寒風が吹き抜け、「立入禁止」「危険 放射性物質」と書かれた黄色の表示板が無心に揺れる。ハガネで梱包した巨大な木箱が、記者の目前でトレラ―に積み込まれ、砕氷船ドックの岸壁に移送中だった。
半開きのシャッターから風が吹き抜けていく
砂ぼこりを浴びた半開きのシャッターを寒風が吹き抜け、「立入禁止」「危険 放射性物質」と書かれた黄色の表示板が無心に揺れる。ハガネで梱包した巨大な木箱が、記者の目前でトレラ―に積み込まれ、砕氷船ドックの岸壁に移送中だった。
梱包された箱、ロープに「危険・放射性物質」の文字
米国がマクマード基地に原子炉を設置したのは14年前の1961年12月。機種はPMPM3Aという原子力潜水艦に使う小型加圧水型原子炉で、出力は1800キロワット。一般の原子炉は3パーセント程度の高濃縮ウランを必要とする。
2年の試運転を経て、1964年5月から本格運転が始まった。原子炉の余熱を利用する海水の淡水化工場も隣接され、 66年12月からは、毎週12万ガロンの淡水を供給した。一時は夏期人口が約1000人にも膨れ上がったマクマード基地の電力、水をすべて原子力発電でま かなった。
2年の試運転を経て、1964年5月から本格運転が始まった。原子炉の余熱を利用する海水の淡水化工場も隣接され、 66年12月からは、毎週12万ガロンの淡水を供給した。一時は夏期人口が約1000人にも膨れ上がったマクマード基地の電力、水をすべて原子力発電でま かなった。
米国は特に淡水化装置について共産圏以外では初めて実用化したと宣伝した。我が国の一部でも昭和基地に原子力発電を、 と真剣に考えた時代はあった。その原子力発電が何の前触れもなく2年前の1973年1月、完全に運転を中止した。72年9月の定期検査で原子炉の中心部、 圧力容器と蒸気発生器を結ぶ循環パイプ部分に冷却水がにじみ出ているのが発見された。それが直接の原因だ。
これは米国のドレスデンをはじめ、昨年秋には日本の東京電力福島第1原子力発電所で見つかったと同じ種類の異常で、放 置するとパイプを腐食破壊する恐れがある。腐食はしていなかった。だが運転を再開するまでに2年の期間と160万ドル(約4億8千万円)に達する費用。加 えて1980年には、全部品の新規取り換えが必要だ―とのデータがはじき出された。「結局、運転中止の決定さ」と責任者のフィルソン海軍少佐は説明してく れた。
◎小型原子炉はコスト高
NSFの資料によると、1962年から11年間にわたって供給した電力は総計6千万キロワット、淡水は1300万ガロ ンとなり、これらをディーゼル油に換算すると490万ガロン。これはマクマード基地が消費する1年分の燃料に相当する。しかし原子炉の管理運営に必要な人 間は26人。これがディーゼル発電だとわずか数人ですむ。人件費や核燃料費、そして危険性などから結局、小型原子炉はコスト高となる。
「南極条約で放射性物質は南極に放置してはならないことになった。だから3年がかりで土台はもちろん、汚染していれば土壌まですべてを米国本土に持って帰る。既に発電タービンは1昨年運び出したが、原子炉本体などはこれから撤去する」とフィルソン少佐。
◎燃料貯蔵タンクが18基
原子炉が廃止された現在、マクマード基地の電力は4つのディーゼル発電機(1基500キロワット)、水も淡水化装置をディーゼル油に切り替えてまかなっている。
このため同基地にはディーゼル油、航空燃料などの貯蔵タンクが合計18基(860万ガロン)もある。空から見ると巨大 な銀色のタンクが並んでいて石油コンビナートのようだ。これらの燃料輸送は5年前からタンカー「マミー」(2万7000トン)が担当、夏期に当たる1月か ら約1カ月かけて運び込む。
燃料タンクが林立するマクマード基地(1974年12月)
「タンカーは小回りがきかないから、昨年は氷縁にステアリングエンジンをぶつけて破損するなど苦労が多いよ」と砕氷艦の総指揮官である沿岸警備隊長、コ―ク・パトリックさんはこぼした。
オイルショックをもろに受けて年間の油代は約2倍の112万ドル。逆比例してマクマード基地の越冬人口は今年は109人から47人へ(海軍)、12人から6人へ(科学者)と半減した。インフレの波は南極にも押し寄せていた。
燃料タンクが大きくなった最近のマクマード基地
建物も統一され、近代化されているのがわかる
標高220メートルの見晴らし丘
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
射殺されたミセス・チッピー
メダルを授与されなかった船大工
昭和基地から南極点まで雪上車で往復した村山雅美隊長。彼が高等師範の付属中学生のとき、英語を教わった英国人の先生が シャクルトン隊の倉庫管理係、オードリーズ隊員だった。このことは11、12回目の追想で書いた。そのオードリーズ先生が航海中の日記で「あらゆる点で豚 そのもの」と、こき下ろした船大工のマクニッシュのことが気になった。
英語版のウィキペディアなどを検索していたら、マクニッシュはエンデュアランス号でネコを飼っていた。だが船が破壊さ れ、食糧などが不足してきたとき、シャクルトンはこのネコの射殺を命じた。恨みを抱いたマクニッシュは反乱を起こす。それが要因となったのか、マクニッ シュは英王室から授与される「ポーラーメダル」(極地メダル)の授賞対象から外される。
この措置をめぐって今でもシャクルトンを批判し、死後でもよいからマクニッシュにメダルを授与してほしいという運動がニュージーランドで展開されているという。
動物もそうだが、人間にも好き嫌いはある。会社、組合、学校などの集団組織で、人事などに好き嫌いを反映させるケースがある。それがわずか28人の、しかも命をかけた男同士の集団であるシャクルトン隊でもあったというのが面白い。
本当にマクニッシュは授賞に値しない男だったのだろうか。それとも史上最強のリーダーとしてのシャクルトンが最後の最後で判断ミスを犯したのだろうか。
問題のポーラーメダルは大西洋から北極海を抜けて太平洋に出る航路開拓に貢献した探検家に贈るため1857年にアーク ティックメダル(北極メダル)として制定された。しかし1904年に南極探検をしたスコット隊からは呼称を変更して現在のポーラーメダルとなったもので、 由緒あるメダルの1つとなっている。
◆並はずれた腕前の船大工
マクニッシュは1874年、スコットランド南部のポートグラスゴーで生まれた。
11人きょうだいの3番目。スコットランド非国教派教会連合の一員で、乱暴な言葉づかいを極度に嫌った。3回結婚しているが、いずれも妻が亡くなったためだ。
「人材求む。危険な旅。低賃金。厳しい寒さ。真っ暗ヤミの日が何カ月も続く。危険いっぱい。無事帰還できるか疑問。成功したら栄誉と表彰。シャクルトン」
後世、有名になった求人広告
エンデュアランス号の乗組員(「エンデュアランス号」ソニー・マガジン刊から)
後世、有名になったこの求人広告が目にとまったのか、船大工の親方だったマクニッシュは探検隊に応募した。当時40歳 で、7カ月歳上のシャクルトンに次いで最年長。痔と足のリュウマチを患っていたが、並はずれた腕前で、定規を使わず、頭のなかで線を引き、正確な仕上げは エンデュアランス号の船長、ワースリーも認めていた。
唯一残っているマクニッシュ(Harry McNish)の写真(同)
船大工は彼1人。ブエノスアイレスから南極に向かう途中でも、シャクルトンのために小さな整理ダンス、生物学者のクラー クには標本棚などを、氷海に入ると航海士が操舵手に方向指示を出すために便利なように腕木式信号機、そしてスクリューが大きな氷塊にぶつからないように監 視するため船尾から突き出た形の小さな監視台など、必要とするものは何でも次から次とをつくっていった。
マクニッシュがつくった腕木式信号機を操作するワースリ−船長(同)
◆ネコの射殺で不満は頂点に
エンデュアランス号が氷塊に囲まれ身動きできなくなると、マクニッシュの仕事は船内の居住空間づくりに変わり、隊員たち の食堂をつくり、ロンドンのホテルの名前をとって「ザ・リッツ」と名付けられた。甲板には犬小屋、氷の圧力で船が崩壊しかかると、氷上を進むためのそりの 改造と、マクニッシュは休む暇もなかった。
甲板上にマクニッシュがつくった犬小屋
「氷の圧力でエンデュアランス号の中に水が浸入し始めた。船内が水浸しになるのを防ぐため、マクニッシュは囲い堰をつく り、毛布の切れ端を詰め、さらに継ぎ目に細長い布切れをあてて鋲で留めた。彼は何時間も凍りつくような水に腰までつかりながら仕事をした。彼は氷が圧力で 船を破壊するのを防ぐことはできなかったが、いつ圧力から船を守る努力をやめるべきか、判断できる十分な経験を積んでいた」
氷塊の圧力で破壊寸前のエンデュアランス号(同)
マックニッシュは破壊されたエンデュアランス号の残骸を使って小型船を建造することを提案した。しかしシャクルトンは却下し、その代わりに船にあった3つの救命ボートを引っ張って、開水面まで進む決定を下した。
痔を患い、ホームシックにかかっていたマクニッシュはそのころから、不満を一層高めていく。そしてその怒りはシャクルト ンがマクニッシュのかわいがっていたネコ「ミセス・チッピー」を射殺することを命じたことで頂点に達した。大工仕事で出てくるオガクズが英語ではチップ。 そこで「チッピー」というあだ名がつけられていたマクニッシュの後をいつも付いて離れないため「ミセス・チッピー」と呼ばれるようになった。が、実はオス ネコだった。
最年少19歳の密航青年、ブラックボロの肩に乗ったミセス・チッピー(同)
◆ソリを引くのを拒否
隊員が交代でソリを引いたが、痔の痛みもひどくなったマクニッシュは、彼の順番がきたとき、ソリを引っ張るのを拒否したのだ。短時間ではあったが、起きてはならない反乱だった。
「マクニッシュはエンデュアランスが破壊された以上、乗組員にはもはや、いかなる命令にも従う義務がないと、船長のワー スリ−にかみついた。この事態にシャクルトンがどう対処したかをめぐっては、さまざまな記録がある。ある報告では、シャクルトンはマクニッシュを撃つぞと 脅した。別の報告では、彼はマクニッシュに、船が港に着くまでは乗組員には命令に従う義務があることを明記した契約書の条項を読んで聞かせた」
船が失われた段階で、船長に対する義務(および、乗組員に給与を支払うという船主側の義務も)は停止されるというマクニッシュの主張は一般的には正しかった。
氷塊に破壊され、崩壊したエンデュアランス号(同)
しかしエンデュアランス号の場合、「船上であれ、ボート上であれ、海岸であれ、船長とオーナーの指示に従って、その任務を遂行する」という特別条項が挿入された契約書に乗組員はサインしていたのである。
「この特別条項がなかったとしても、現実の問題としてマクニッシュは命令に従うしか選択肢はなかった。つまり彼一人では生きていけないし、この命令に従わなければ、残りの隊員たちと一緒にやっていけなかったのである」
指揮官としてのシャクルトンが優れているのは、自分の決定にこだわらないことだ。
最終的に彼はボートを引っ張って開水面まで行く計画は間違いだったと判断、唯一の解決策は、海氷が一行を開水域まで運ぶのを待つことだという決断を下したのである。
◆無人島だったエレファント島
28人の隊員と3隻の救命ボートを乗せた海氷が流れて開水域に出たとき、シャクルトンは3隻の救命ボートでエレファント島に向かうことを決めた。
無人島のエレファント島に残されて救援を待つ隊員たち。
後列右から3人目がオードリーズ(同)
15日かかって一行はエレファント島に着いたものの、無人島で何もなかった。
このままでは全員餓死してしまうと判断したシャクルトンは、5人の隊員を連れて捕鯨基地のあるサウスジョージア島まで救助を求めに行くことを決め、マクニッシュに救命ボートの「ジェームズ・ケアード」を長い航海に耐えられるよう補強するよう命じた。
マクニッシュは他の救命ボートのマストを使って、「ジェームズ・ケア―ド」の竜骨を補強し、1480キロの航海に耐えられるようにした。
「マクニッシュは、アザラシの血液と小麦粉を混ぜ合わせたものをボートの隙間に埋め込んだ。木材と、荷造り用の箱から とった釘、それにソリの滑走脚を利用して間に合わせの骨組みをつくり、それにキャンパスを張り付けた。シャクルトンは、頑丈そうなのは見かけだけではない かと懸念したが、後に、このボートがなければ、乗組員はサウスジョージア島まで航海してたどりことはできなかったことを認めた」
◆17日間の壮絶な死闘
エレファント島からサウスジョージア島までの1500キロに及ぶ17日間の航海は、文字通り6人の壮絶な死闘だった。 シャクルトンはマクニッシュも同行させたが、彼をエレファント島に他の者と一緒に残すと、彼の士気に影響を及ぼす恐れがあることに配慮したからかもしれな い。
甲板などの補強がされていない救命ボートで水樽をジェームズ・ケア―ドへ運ぶ隊員たち
ジェームズ・ケア―ドでエレファント島を出航する6人の隊員たち。(同)
マクニッシュが救命ボートのわきを高くし、大波が船内に入らないよう
甲板でボートを覆ったのが分かる
世界で最も激しい荒海として名高いドレーク海峡を小さな救命ボートで乗り切ろうというのだ。大波に襲われても転覆しない ように、沈みかねないほど重いバラストを積んだ。しかし荒波は容赦なく襲いかかり、救命ボートは水浸し。全身ずぶぬれになりながら水のくみ出し、舵とりを 交代で遂行した。
「6人全員が足の痛みを訴えていた。エレファント島を出発して4日目のこと。マクニッシュは突然座り込んだ。長靴を脱ぐ と、彼の両足の膝から先が白くむくんで膨れ上がっており、足がふやけて腐る『塹壕病』になる寸前の症状だった。マクニッシュの足の状態を見たシャクルトン は全員に長靴を脱ぐように命じた」
水浸しの寝袋からトナカイの毛が抜け落ち、内部はドロドロに腐り、異臭を放つ。飲料水にも海水が入り、スープも塩辛くなってしまう。寒さで海水が凍りついた甲板から室内につららが垂れ下がる。もうダメかとあきらめムードが漂い始めたとき、島影が見えた。助かったのだ。
「ジェームズ・ケア―ド」の一行は1916年5月10日にサウスジョージア島に到着した。しかし目指していた場所とは反対側だった。
「私は丘の上に登った。そして草の上に身体を横たえた。私は故郷で丘の上に座って海を見下ろしていた昔の気持ちになった」と、マクニッシュは日記に記している。
◆ボートのネジ外して長靴の滑り止めに
エレファント島に残してきた仲間の救助を要請するため、反対側にある捕鯨基地まで急ぐ必要があった。シャクルトンは疲労 の激しいマクニッシュとビンセントを残すとともに、2人の面倒をマッカーシーに見るよう指示し、船長のワースリーと二等航海士のクリーンを連れて険しい絶 壁だらけの山越えをすることを決断した。
サウスジョージア島の捕鯨基地。
港内に見えるのは南極探検の航海に出航直前の
エンデュアランス号。救助を求めてシャクルトンは前方の山を乗り越え捕鯨基地に来た
「マクニッシュは『ジェームズ・ケア―ド』からネジくぎを外して、旅に出る3人の男たちの長靴に取り付けて、長靴が氷盤をかむようにした。また岸で見つけた流木で急ごしらえのソリをつくったが、あまりにもぎこちない出来だったので実用にはならなかった」
氷雪の絶壁を登り降りするには長靴では滑る。マクニシュは、アイゼンのような装置が必要だと考えた。知恵を振り絞り、 ボートから真鍮製のネジくぎを外して、ちょうど、野球のスパイクのように、それを靴底に埋め込むことを思いついたのだろう。マクニッシュのこういう極限状 態での機転と応用・順応力、それに責任感と思いやりなど、その人柄がにじみ出ているエピソードだ。これだけでもポーラーメダル受賞に値するのではないだろ うか。
シャクルトン一行は険しい絶壁に進路を阻まれながら、36時間の悪戦苦闘の末、捕鯨基地にたどり着いたのだった。
「シャクルトンはマクニッシュと残りの隊員を救助するため、捕鯨船の一隻、サムソン号にワースリーを乗せて向かわせた。 救助されて捕鯨基地に到着した時のマクニッシュのやせ衰えて、顔がゆがんだ姿を見たシャクルトンは、マクニッシュにとっては間一髪の救助だったと感じたと 記している」
◆削除された反乱の記録
このように船大工のマクニッシュがいなかったら、「ジェームズ・ケア―ド」でエレファント島からサウスジョージア島までの航海もできなかったし、捕鯨基地までの断崖絶壁を登り降りすることは不可能であったことは一目瞭然だ。
にもかかわらず、シャクルトンがポーラーメダル授賞者の推薦リストからマクニッシュを外したのはどうしてなのだろう。
食糧難からネコの射殺を命じた一件があったため、マクニッシュは一生涯、シャクルトンを許さなかったと言われている。一 方のシャクルトンも、マクニッシュについては乗組員の中で唯一「完全に理解できるとは言えない人物」と評し、彼のスコットランドなまりは「すり切れそうな ワイヤ―」のように耳障りだと言うなど、2人の間の人間関係はよくなかったようだ。
シャックルトン(Sir Ernest Shackleton)隊長(同)
この問題の背後には氷上でマクニッシュが起こした反乱が大きく陰を落としているように見える。とはいうのも反乱の真相に ついて、船長のワースリーもマクニッシュ自身も自らの記録には何も記していない。シャクルトンの探検記録「南へ」でも、そのことについて全く触れていな い。
「出来事は船の航海日誌に記録されたが、『ジェームズ・ケア―ド』の航海中に、この航海日誌の(マクニッシュの反乱の) 記録は削除された。シャクルトンは、この船大工のマクニッシュの勇気と熱情に感動させられたからだ。にもかかわらず、帰国したシャクルトンから送られてき た手紙には、ポーラーメダル授賞を推薦されなかった4人の中にマクニッシュの名前があった」
マクニッシュの勇気と情熱に感動しながらポーラーメダル授賞者に推薦しなかったシャクルトン。どう解釈したらよいのだろうか。
◆永遠に続くポーラーメダルのナゾ
この件について船医、マクリンの見方は注目される。彼はメダルを授与しないことは不当だと思ったと、次のように述べている。
「私はマクニッシュ、ビンセント(甲板員)、ホルネス(機関員)、そしてスティーブンソン(機関員)がポーラーメダルの 授与を否定されたことを知って、がっかりした。遠征隊全員の中で、歳とった船大工よりもその栄誉をたたえるに値する人間はいない。マクニッシュにポーラー メダルを授与しないことはひどく不当なことだと考える」
ワースリー(Frank Worsley)船長(同)
そしてマクリンはシャクルトンが決定を下すにあたり、船長のワースリーに影響されたのではないかと分析しているのだ。と いうのもワースリーも、シャクルトンと同じようにマクニッシュに対する反感を共有していたのであり、シャクルトンが南極から帰還する際に、ワースリーも一 緒だった、というのである。
メダルをマクニッシュに授与しないのは不当と訴えるマクリン(Alexander Macklin)船医(同)
授章者に推薦されなかった4人は、船大工、甲板員、機関員2人と、いずれも船長のワースリーの支配下にある乗組員であ る。つまりワースリーの意向が強くはたらいていると言ってよい。エレファント島からサウスジョージア島までの最も厳しい荒海を乗り越えることができたのは ワースリーの神業に近い航海術があったからだと言われている。とするとシャクルトンは、ワースリーへの恩返しとして、ポーラーメダルの授章者推薦ではワー スリーの意向を受け入れたということだろうか。
この船医、マクリンの分析が正しいとすると、マクニッシュが海氷上でソリを引くことをやめた反乱について、船長のワース リーは決して許すことができない反逆行為として根に持ち続けていたことになる。マクニッシュの活躍がなかったら自分たちの生命も失われていたはずなのだ が、反逆を許すと船長の権威が保たれないと判断したのだろうか。
◆晩年はウェリントンで極貧の生活
マクニッシュのその後の人生は幸せとは言えないだろう。探検終了後、マクニッシュは「商船海軍」に戻り、さまざまな船で働いた。
「マクニッシュはしばしば、『ジェームズ・ケア―ド』の航海中のひどい状態のせいで、骨が永遠に痛むようになったとこぼしていた。彼はしばしば痛みのため握手を拒否したと伝えられている」
1918年3月2日に3番目に結婚したリジ―・リトルジョンとは離婚、新しいパートナーのアグネス・マーチンデールと一 緒に生活を始める。そして通算23年間、海軍で過ごした後、最終的にはニュージーランド・シッピングという会社で仕事を確保。ニュージーランドを5回訪れ た後、1925年にマーチンデール(彼女とは正式の結婚はしなかった)と大工道具一式を残してニュージーランドに移った。けがで引退するまでウェリントン の港で働いた。
「しかし極貧状態の彼は、波止場の物置小屋で、タールを塗った防水布にくるまって眠り、波止場の労働者が毎月与えてくれる献金に依存した生活だった。彼は慈善ホームに移ったが、健康状態は悪くなる一方で、1930年9月24日ウェリントン病院で亡くなった」
「エンデュアランス」の著者であるキャロライン・アレグザンダーさんはマクニッシュについて次のように書いている。
「ウェリントンのドックで働く海の男たちにとって、『ジェームズ・ケア―ド』の船大工は英雄だった。そして監視員は、この老人が夜になると、波止場の物置小屋にもぐり込み、タールの防水布の下で寝るのを、見てみないふりをした」
死去して2日後の26日に彼は、ウェリントンにあるカロリ墓地に海軍の栄誉ある葬礼によって埋葬された。たまたまウェリ ントンの港に寄港していた英海軍の艦船ダニディン号から、葬儀で36発の弔銃を発射する12人の水兵と、棺をかつぐ8人の水兵が派遣された。またニュー ジーランド軍が、棺を運ぶ砲車を提供したという。
マクニッシュが埋葬された墓のすぐ近くに、「あらゆる点で豚そのもの」とマクニッシュを見下したオードリーズ隊員の墓もある。南極探検を終えて、それぞれ別な人生を歩んだ後、再びカロリ墓地でともに永遠の眠りにつくとは、不思議な因縁である。
◆墓にネコのブロンズ像
彼の墓はほぼ30年間、何も書かれないまま放置されていた。1959年5月10日。ニュージーランド南極協会が墓石を建 立した。そして2004年6月27日、南極協会が6000ニュージーランド・ドルの寄付金を集めて制作してもらった、マクニッシュが愛したミセス・チッ ピーの等身大のブロンズ像を墓の上に置いた。
マクニッシュの墓の上に置かれたミセス・チッピー像
英国のBBC放送のホームページには、その1週間前の6月21日、「南極の英雄が愛猫と再会へ」という見出しの記事が掲 載され、「シャクルトンの非運のエンデュアランス号の船大工、マクニッシュと彼の愛したネコのミセス・チッピーが再会しようとしている」と報じ、マクニッ シュが反乱を起こしたためポーラーメダル授賞で推薦されなかったことなどを伝えた。そのなかでニュージーランド南極協会ウェリントン支部のマリスカ・ウー ターズ氏は「これは、われわれのマクニッシュに対するささやかな敬意の表明である。われわれは過去に戻って、ポーラーメダルを彼に授与することはできない が、これは彼があの探検行に貢献したことを称える1つの方法だ」と語った。
またカンタベリー博物館の南極史に関する名誉学芸員のバーデン・ノリス氏は「私の見解では、この探検を救ったただひとり の人物は、ワ−スリー船長ではなく、マクニッシュだった。ボートをつくる彼の技術のおかげで、救助が可能になったのだ。彼の名前をもっと知られるようにす るのは、どんなことであれ、良いことだ。それは歴史をいささかなりとも、バランスのとれたものにする」と述べた。
子どもたちにも愛されるミセス・チッピー(purr-n-fur uk から)
このBBCの報道は、最後に英国のノーリッジに住むマクニッシュの孫、トム・マクニッシュ氏の「英国の反対側ニュージー ランドで行われている努力が、多分、祖父がしてもらいたかったことでしょう。祖父にとって、ポーラーメダルよりもあの猫の方がもっと大事だったと思う」と いう言葉を伝え、終わっている。
ニュージーランド南極協会がシャクルトン隊員の船大工、マックニッシュに大きな関心を寄せているのは、ニュージーランド が南極大陸に近く、南島東海岸のクライストチャーチがマクマード基地、スコット基地への航空機発着場になっていること、また昔は英国の属領だったことに対 する本国への独立心といったものが微妙にはたらいて、最後の住み家として英国よりもニュージーランドを選んだオードリーズやマクニッシュに親愛の情を寄せ ているのではないかというのが、10次隊の越冬隊長、楠さんの見方である。
◆マクニッシュ島と命名
1958年には英国の南極観測局は、彼の名誉をたたえてサウスジョージア島のキングハーコン湾にある小さな島をマクニッ シュ(McNeish)島と命名した。島は1998年に彼の出生証明書が英国の南極名称委員会に提出されて、マクニッシュ(McNish)島と再命名され た。
2006年10月18日には彼の業績をたたえる小さな卵型の飾り板が、彼の生まれ故郷であるポートグラスゴーの図書館の壁に取り付けられ、お披露目された。
そして同じ年にスコットランド南西部にあるグリーノックのマクリーン博物館と美術館で彼を記念する展示会が開かれた。彼の航海日誌はニュージーランドのウェリントンにあるアレキザンダ―・ターンブル図書館に保存されている。
(横川 和夫 2010年8月1日)
連載ルポ「新しい南極」(15)
南極に夢描く日本人地質学者
教科書書き換える新発見求めて
「やあ―、実にいい感じだ。いい気分だね」−南極大陸の最高峰ビンソン山塊(5140メートル)のあるエルズワース山脈に日本人として初めて立った太田昌秀(よしひで)さん(42)=長野県出身=は、一人で悦に入っていた。
小柄で額が広く、黒縁めがね。一見、若いときの毛沢東首席を思わせる風貌だが、南極入り以来、伸ばした無精ひげがそのイメージを壊しているのをご本人は気が付かない。
◎ノルウェー隊に日本人
太田さんと出会ったのは、ニュージランド・クライストチャーチにある米海軍基地の装備倉庫で、南極行きの装備を点検し ているときだった。北大理学部から3年前、ノルウェーの国立極地研究所に移った国際的地質学者。国籍は日本だが、もうれっきとしたノルウェー公務員。今回 はエルズワース山脈の南側を占めるヘリテッジ山脈調査を行う4人のノルウェー調査隊の一員として地球の裏側からやってきたのだった。
クライストチャーチの装備倉庫で声をかけてきた太田さん
隊長のウィンスネスさん(54)は1948年に極地研究所入所以来、夏休みは北極に25回、そして南極に5回も出かけ ているという『極地男』。私は「これはチャンス。エルズワースに行けるかもしれない」と考えた。交渉は成功。C130貨物輸送機でエルズワースに飛んだ。
◎180度広がるパノラマ
ロス氷棚を一直線に横切り、エルズワース山脈に突入。3方を山に囲まれた盆地に着陸した。最南部にあたるエンタープラ イズヒルの東側である。ノルウェー隊はここにベースキャンプを張って1月下旬までの約2ヶ月間、スノースクーターとスキーで150キロ近くを走破予定だ。
付近の180度広がるパノラマは絶景と言えた。
機首の前方、南側は氷の水平線が果てしなく続く。右側は三角定規の形をした尾根が幾重にも切り立っている。2、3億年 昔の造山運動で褶曲(しゅうきょく)したのだろう。後方、北側はエルズワース山脈の山塊が階段状に重なっている。一番近い山は黒く、遠くになるにつれて青 味がかり、最深部は空色にかすむ。左側にはピラミッドの形をした山が一つ大氷原から突き出していた。
日の丸とノルウェー国旗を掲げる太田さん
ノールウェー隊の4人。一番右がウィンネス隊長
ここにベースキャンプを張って2ヶ月間調査旅行をした
◎上下の地殻の断裂運動に着目
1935年、リンカーン・エルズワースが南極大陸横断飛行のさい、機上から発見したエルズワース山脈は南北方向に横た わる全長350キロの大山脈。米ミネソタ大が1961年から3年間、雪上車とヘリコプターを使って地図づくりをやった以外、あまり知られていない。この山 脈の東側の南極横断山脈、そして西側の南極半島の地層は東西方向だが、エルズワース山脈だけは南北方向、つまり西側の山脈に対してH字型になっている。
「今、日本ではプレート・テクトニクス(大洋底拡大説)が盛んだが、これで説明できない現象がたくさんある。水平運動 もあれば上下に動く垂直運動、つまり地殻の断裂運動があってもいい。エルズワース山脈も上下の断裂運動でできたのではないか。ひょっとすると南極横断山 脈、ニューギニア、日本、アラスカ、ロッキー、アンデス…と環太平洋帯は1つのまとまった断裂山脈ではないだろうか。地震も断裂運動のひずみを元に戻す動 きではないか。教科書を書き換えるような新発見の手掛かりがつかめるのではないかと思うと胸がわくわくして」と、太田さんは地質学者としての夢を語ると愉 快そうに笑った。
◎第1志望はペンサコラ山脈
だがノルウェー隊の第1志望はエルズワース山脈ではない。「われわれの本当の望みはペンサコラ山脈の塩基性層状岩体の調査に行きたかったのだ。でも米国が…」と太田さん。
塩基性層状岩体は地球内部のマグマが地球表面に突出してできたもの。冷却していく過程で1番下から白金、クローム、鉄と等高線を描いて沈殿、固まっていく。世界的に有名なのは南アフリカ・ヨハネスブルグにあるが、既に貴重な白金などは掘り尽くされている。
つまり塩基性層状岩体は地下鉱物の標本であると同時に鉱物資源の宝庫。現代のダイヤ探しは世界的な利害にかかわる行為になる。米国は来年、この層状岩体についてボーリングによる科学調査に入ることを検討中で、日本にも協力を打診してきている。
◎クローズアップされる南極資源
米国は一昨年、ペンサコラ山脈近くに飛行場の敷地を決め、新しい補給基地をパインアイランド湾付近に求めているという。
科学調査という形で、今や南極の資源がクローズアップされ、そのベールがはがされていく度に世界各国はむき出しの関心 を寄せる。いつまでも科学調査の美辞麗句がまかり通るのか、南極の将来は人類に残された唯一の資源という秤の上で、その人類による裁断を受けようとしてい る。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
メモ帳に残された取材の裏側
何事もあきらめないことが肝心
私は教育、家族の問題に焦点を当ててルポルタージュを書いてきたが、それらはすべて人との出会いによって出来上がったも のである。この「新しい南極」も例外ではない。15回目の最初に書いてあるように、クライストチャーチにある米海軍基地の装備倉庫で太田さんと出会わな かったら、この連載は恐らく日の目を見なかっただろうと思う。
当時のメモ帳を読み直して、その思いを改めて強くした。今回の追想は、このメモ帳を基に、取材の裏側を書いてみることにした。
◆好奇心旺盛なジャーナリスト
「太田さんは非常に親切な人で、英語で分からないところがあると、すぐ助っ人で通訳してくれる。こまめで好奇心が強く、 マクマード基地をコマネズミのように動き回っては『おい。あそこに面白いものがあるぞ』『あの男は、こんな研究をしているぞ』と声をかけてくれる。昨日も 部屋にいると電話がかかって来て『おい。いまこれから氷の下にもぐって魚やヒトデの生態を研究しているヤツが出かけるから、カメラを持って来い』という」
地質学者というより好奇心旺盛な先輩ジャーナリストといった感じで、私は南極でジャーナリストとしての基本的な取材のやり方、姿勢を学んだのだった。
マクマード飛行場に着いた太田さん
◆「当初の君の計画にはない」
太田さんが南極の最高峰エルズワース山脈の南側を占めるヘリテッジ山脈の調査に行くと知り、「やあ―、僕もぜひそのエルズワースに飛んでみたいなあ」と言ったら、早速、ノルウェー隊の隊長に打診してくれた。
「隊長のウィンネスはOKだそうだが、輸送責任者はNSFのプリズナハム氏だから、彼に頼んでみたらと言ってるよ」
そのプリズナハム氏がなかなか「うん」と言ってくれないのだ。あとで分かったことだが、若干35歳。だがキリストのように長く髪を伸ばし、ふちなしの部厚い近眼眼鏡のせいか40代に見えた。実に扱いにくい人だった。
同じ宿舎で朝、顔を合わせてもニコリともせず「おはよう」と、ぼそり言うだけ。神経質なのか両手の爪はみな噛んで丸くなり、肉質がはみ出しそうになっている。
「ノルウェー隊の隊長はオーケーと言っているよ」と私が言うと、彼は「当初の君の計画にはない。こちらは科学者の研究支援任務が第一。余裕があったらマスコミの人たちの希望をかなえてあげる」という返事を繰り返すだけ。半分あきらめかけていた。
◆「もっとプッシュを」と励まされ
そこに救いの神が現われたのである。米海軍輸送本部のモルガン副司令官だ。
将校クラブのバーで飲んでいたら「オハヨウゴザイマス」ときれいな日本語で話しかけてきたのが彼だった。彼は朝鮮戦争当時、横浜に住んでいたという。
「私の子どもは日本人の子とよく遊ぶので、日本語がペラペラになり、日本語が分からない女房を困らせた」という話から、すっかり意気投合してしまった。
「実は、エルズワースとサイプルに行きたいのだが、重量制限があって難しいらしい」と切り出すと、彼は言った。
「ヨコカワサン。ダイジョウブ(ここまでは日本語)。私がこの南極大陸の総元締めをやっている。南極観測は科学者優先は もちろんだが、世論の支持がなければだめだ。そのためには君のようなマスコミ人にいろいろ書いてもらわねばいかん。よし。引き受けよう。NSFから君の名 前が出てくれば必ずオレは飛行機に乗せてやると約束する。だからプリズナハム氏を、もっとプッシュしなさい」
実にありがたい助言であった。このアドバイスがなかったら、私は完全にあきらめるところだった。意を強くした私はNSF事務局に日参した。相変わらすプリズナハム氏ははっきりした返事をしてくれない。
◆終戦当時、立川基地に駐留
そこへ第2の助っ人が現れた。プリズナハム氏の下で、建設作業や補給物資調達の下請けをしている「ホームズナーバーズ社」のマクマード支配人、ハープスト氏だ。
60歳に近い彼は終戦当時、立川基地に駐留していて、焼け野原だった東京―八王子間に軍用の電線を敷設したことがあると いう。私の顔を見れば親しく話しかけてくる。私の希望を彼に話すと、「僕はTBSの兼高かおる女史を案内したことがある。プリズナハムを説得してやろう」 と言ってくれたのである。
こうした人たちとの出会いで、エルズワース山脈へ飛ぶことができた。何事もあきらめないことが肝心だ。あきらめていたらサイプルにも、エルズワースにも行けなかっただろう。
「明日、エルズワースに行く。空港まで来て欲しい」という電話がスコット基地のニューマン隊長にプリズナハム氏からかかり、翌朝、ハウスマウスのスタントン副隊長が眠い目をしょぼつかせながらマクマード基地の飛行場まで私をジープで運んでくれた。
太田さんはじめ顔なじみのウィネス隊長ら一行4人が「ついにやって来たな」と言いたそうな顔で私を迎えてくれた。
私を待っていてくれたノールウェー隊4人
◆目前に迫ってくる山、山、山
C130貨物輸送機はフランス領土とほぼ同じ広さのロス氷棚を一直線に横切り、全長350キロもあるエルズワース山脈へ。350キロというと東京から名古屋までの距離だ。
「来てごらん。見えるよ」という太田さんの声で操縦席に上がると、そのエルズワース山脈は操縦席からは手の平に乗っかり そうな小さな破片にすぎない。ピラミッド型の山がかすかに白い氷原から頭を突き出し、先端が鋭く天を衝くようにとがっているのが分かる。高度が下がり、 あっという間に高度1000メートルになる。
操縦席から見たエルズワース山脈
破片のようだったエルズワース山脈が巨大な塊になって目前に迫ってくる。氷河で削り取られ、お椀のように丸くえぐれている山。断層模様がタテではなく横に80度傾いている岸壁。太田さんは「造山運動でヨコのものがタテになったのだ」と説明してくれる。
お椀のようにえぐられている山
断層模様がヨコに80度傾いている
ノルウェー隊は事前に航空写真から判定し、エルズワース山脈の南側に位置するヘリテージ山脈の南東山麓が最も風が少ない だろうと予測して、そこにベースキャンプを設置することを決めていた。28歳の機長は設営に都合のいい平らな雪面を探して、何回も旋回する。その度に山脈 に激突するような錯覚に陥る。着陸後も約10分も滑走を続け、山脈のふもとまできたところで後部のドアを開けた。眼前に飛び込んできたのがのこぎりの歯の ような山、山、山。
のこぎりの歯のような山、山、山
◆日の丸を手に写真
スピードを落としながら滑走を続けるなか、乗組員が荷物を支えていた留め金を外していく。スノーボート2台、テント3張り、2か月分の食糧、燃料など約1トンの荷物が次から次と機内から雪面に滑り落ちていく。
スノースクーター2台も降ろされた
ノルウェーの隊員が無線機の入った箱を開けて、航空機と交信して波長をチェックしている間、太田さんが胸のポケットをごそごそやって取り出したのは日の丸とノルウェーの国旗だった。
「ノルウェーの隊員も一緒に撮りたいね」と誘ったら「彼らは、こういうことは好まないんだよ」と言うので、太田さん1人がニコニコしながら国旗を手にしている写真が出来上がった。
日の丸、ノルウェー国旗を手にご満悦の太田さん
無線の交信テストを最後にお別れ
30分後。乗組員は機首の前で記念撮影。近づいたら「お前も入れ」と誘われた。そして4人のノルウェー隊を残してエルズワース山脈を後にしたのだった。
お前も一緒にと乗組員と記念撮影
(横川 和夫 2010年8月8日)
連載ルポ「新しい南極」(16)
灯し続けよう平和の灯を
石油、鉱物資源で新たな試練
1961年から発効した南極条約は、領土権の主張を30年間凍結して南極の平和利用、科学観測を行うことを決めた。
この条約により、白い大陸はビザなしで世界中の人々が行ける唯一の大陸になった。南極は戦争を繰り返していた人類がついに実現した平和の理想郷とも言える。ところが、南極にも不安材料がある。肝心の鉱物資源開発について何も触れていない点が問題だ。
◎避けてきた南極の資源問題
「南極条約成立のとき以来、各国は資源問題を避けてきたが、ついに無視できない事態に追い込まれたようだ」と元オーストラリア南極局長のロウ博士は現状を分析する。
ロウ博士によると、昔は南極に石油があるとは、また石油不足がこれほど深刻な問題になるとはだれも予想をしなかった。 一昨年5月と昨年10月の2回、南極条約加盟17ヶ国は、この資源問題をめぐって非公式の会議を開いたが、各国の思惑が絡み合い、結論がついに出なかっ た。
「未来の人類に南極資源を残すため100年間は凍結すべきだ」(ソ連)「資源目録を作成のため資源探査をやるべきだ」(米)「いかなる資源探査も反対」(チリ、アルゼンチン)といった具合だ。
◎国際企業から石油探査申請
だが、現実には英、ニュージーランドなどは国際企業からロス大陸棚の石油探査申請を受け、その取り扱いに苦慮していると言われている。
ノルウェーの極地航空会社は、この夏、航空機による調査を準備中とのうわさをマクマード基地で聞いた。
「とにかく一刻も早く南極資源の取り扱いについて結論を出さないと厄介なことになる」と、トムソン・ニュージランド南極局長は深刻そうに顔をしかめた。
ロス氷棚はニュージーランドが南極条約締結以前、領土権を主張していた場所だが、資源問題は領土権を越えた大問題だという。
◎鉱区税支払で資源開発
トムソン局長は「ことし6月、ノルウェーのオスロ―で開く第8回南極条約協議会議でとりあえず基本原則で一致にこぎつけたい」と力説、あくまで私案だと前置きして3つの基本原則を示した。
1)環境破壊を伴う探査・資源開発の厳禁(2)資源開発の場合は鉱区税支払制度とする(3)違反行為の取り締まり、トラブル処理のため警察権を行使する―の3点。
「この場合だれが鉱区税を管理し、警察権の構成をどうするかが問題だが、とにかくこれは最低の基本原則だ。私は鉱区税は南極の科学調査と発展途上国援助に使うべきだと思う」と、トムソン局長の提案はかなり具体的だ。
南極条約加盟国はわずか17ヶ国である。インド、中国、ブラジルなど非加盟国がこれから決まる海洋法をたてに南極の開発に取り組む事態だって考えられないことはない。
◎石油、資源で南極は新事態へ
1974年12月初め、NSFの招待で南極入り、1週間にわたって極点、ドライバレーなどを見て回った米記者団一行6人と「南極の未来」について話し合う機会を持ったが、ほとんど全員が石油、資源問題の出現で「南極は新事態を迎えた」という点で意見が一致した。
なかでも現在ユーゴスラビア駐在のニューヨークタイムズ、マルコム・ブラウン記者は「平和な静かな時代はあと数年で終わる。各国は石油、鉱物資源、魚資源を目指して醜い紛争を展開するだろう。残念ながらそれが人間の歴史だ」と極めて悲観的だ。
フィラデルフィア・インクァイヤラーのス―ナン記者は「これまでの各国が平和にやってきたのは科学調査だけだったからだ」とまで言い切った。
◎請求権放棄した日本の役割
米コロラド州デンバーのテレビ局で学校放送の先生をしているというラグ放送記者は、「今後も南極条約の下で各国が現在 の平和な協力関係を続けていくべきだと思うし、そう願う。しかしデンバーで石油が発見された時、企業が群がってすべてをむちゃくちゃにしたものだ」と『人 間の悪性』にため息をついた。
ブラウン記者は「サンフランシスコ平和条約で日本は南極に対する全ての請求権を放棄した唯一の国だから、南極の未来について発言すべきだ」と言ってくれたが、残念ながら日本政府の態度は無関心と言うべきだろう。独自の主張、態度すら決めていないのが現状だ。
◎バード少将を囲む17ヶ国の旗
南極条約加盟17ヶ国の国旗がマクマード基地では探検家バード少将の銅像を、『地球の底』南極点基地では極点の標識を取り囲むようにはためいていた。
バード少将の銅像を囲む17ヶ国の国旗(マクマード基地)
南極の領土権を放棄した日本の役割は何か
今後も白い大陸で平和の灯をともし続けられるかどうか―人類は新たな試練に直面しているのである。
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年1月より連載ルポとして地方新聞に掲載された)
南極よりも北極で資源の争奪戦
国境の共同管理という新しい発想を
この連載を書いてから35年という年月が経過した現在、実は石油、鉱物資源問題で、風雲急を告げているのが南極よりも北極である。
「巨大氷山、南下中」という見出しで、8月初旬にグリーンランド北西部の氷河から巨大な氷山が分離し、分裂を続けながらカナダ沿岸を南下し、1、2年間漂流を続ける可能性がある、という記事が2010年8月12日の新聞に載っていた。
面積は約250平方キロメートルで、ニューヨークのマンハッタン島の4倍。北半球では1962年以降で最大だという。場合によっては航行する船や石油掘削施設に衝突し、豪華客船タイタニック号沈没事故のような大惨事を起こす可能性もあるという。
地球の温暖化で北極海の海氷域は想像を超えるスピードで減少しており、2037年の夏季には氷のない北極海が出現するといわれてきた。しかし最近ではスピードが早まり2013年にも氷が消えるという予測もあり、それを裏付けるような記事なのでギョッとさせられた。
◆北極海で資源争奪戦
夏季に北極海の氷がなくなると、どうなるか。
海洋政策研究財団の北極海季報によると、北極圏には未開発だが、技術的に採掘可能な世界の資源の約22パーセントが埋蔵されている。
そのため氷が消えて船による航行が可能になると、北極海の氷の下に眠っている石油、天然ガス、さらには金、銀、銅、白金 などの鉱物資源をめぐっての争奪戦が各国間で展開されるだけでなく、新しい北極航路が開かれることにより、軍事面や商業面にも大きな変化が現れてくること が予想されている。南極よりも北極海域をめぐる資源争奪戦が身近な問題として迫ってきているのだ。
◆ロシアが北極点海底に国旗
その前哨戦ともいうべき動きが早くも始まっているという。
例えばロシアは2007年8月に、深海潜水艇2隻で北極点の海底にチタニウム製のロシア国旗を立てた。北極海の資源に対 する主権的権利の既成事実をつくろうというわけだが、カナダや北極海沿岸諸国は「今は15世紀ではない」と、ロシアを厳しく批判したという。このほかロシ アは北極海での海空軍活動を活発化させている。
このロシアの動きに対応するかのようにアメリカ、カナダ、ノルウェー、デンマークなども警戒感を示し、それぞれが北極圏で軍事活動を活発化させているのが現実である。
◆南極6回、北極6回の太田さん
前回の追想で取り上げたノルウェー国立極地研究所の太田昌秀さんは今、どうしているだろうと思い検索していたら、偶然だ が、海洋政策研究財団が出しているニュースレター173号(2007年10月5日)に「北極海の排他的経済水域争奪合戦」というタイトルで、この問題を取 り上げていることが分かった。
2006年・北極点航海の講師の太田さん(ヤマ―ル号で)
=第33回万国地質学会議IGC(オスロ)報告から転載=
太田さんは1972年から2006年までノルウェー国立極地研究所の研究員(教授)を勤め、その間、ほぼ毎年スヴァル バール諸島を中心にノヴァヤ・ゼムリアからカナダ北部の島々まで北極圏の探検調査に従事し、南極へ6回、2003年以後はロシア原子力砕氷船ヤマ―ル号で の北極点航海にも講師として6回参加し、これまでに計200編以上の論文を発表。現在は国立極地研究所嘱託上級研究員としてオスロ大学の地質博物館に研究 室を持っている。(東北大東北アジア研究センター、石渡明教授のブログから)
◆排他的経済水域の分捕り合戦
ニュースレターで太田さんは「いま北極海で排他的経済水域(EEZ)の分捕り合戦が始まっている」と詳しくその状況を解説している。
北極海の排他的経済水域
=ニューズレター173号から転載=
ノルウェーとロシアの領海、EEZの境界線をめぐる係争図
=ニューズレター21号から転載=
「1994年に発効した国連海洋法条約で、幅12海里の領海や200海里のEEZについての合意はできた。ところがこの 中には『海底の地形・地質が、その国の大陸棚からの自然の延長であれば、EEZを350海里まで、また2500メートル等深線から100海里拡大すること ができる』という条文がある。そこでこの条文に添って自国のEZZを拡大しようとする申し出がロシアなど多くの国から出されている。これらの申請は、国連 の『大陸棚の境界に関する委員会』が、提出された資料を検討して勧告を出し、各国が勧告に従ってEZZ大陸棚の外縁を設定すれば、効力を持つことになる」
◆ロシアからの申請は却下
2002年にロシアは北極海のEZZ拡大について申請をしたが、データが不十分だとして却下された。そのためロシアは追加調査をして再提出する準備を進めているという。
「そしていま、ロシアの追加調査がいよいよ始まった。2007年夏には原子力砕氷船ロシア号が、ロモノソフ海嶺がシベリ ア大陸棚と連続している証拠を集めるため調査航行に出発。砕氷・調査船アカデミー会員・フィヨドロフ号は、2隻の有人小型潜水艇を搭載し、これらを北極点 真下の海底に潜らせ、深さ4261メートルの海底にロシア国旗を立てたと8月3日のテレビで公表した。21世紀のいま、『国旗を立てたからわが国の領土 だ』というのは通用しない。しかしロシアは『国旗を立てる』という象徴的な行為によって、北極点領有に意志を世界に向かって明示した。これは北極海周辺の 諸国にとっては衝撃であった」
◆中国も北極海に多大の関心
北極海域の資源をめぐる争奪戦は、これからさらにエスカレートしていくに違いない。これまで静観していた中国も最近、北極海域に強い関心を示し、1993年には極地調査用の砕氷船を購入し2010年には4回目の調査活動を行う予定だ。
中国にとって北極海航路が開けると、上海―ハンブルグの航路はスエズ運河、マラッカ海峡経由より6400キロも短縮できるだけでなく、海賊事件により10倍に跳ね上がっている保険料の節約にもなる。
海洋政策研究財団主任研究員、秋元一峰氏によると、中国は石油や天然ガス、鉱物資源にも関心を示し、「大陸棚外縁の境界 を決定するにあたっては、沿岸国だけのものとして議論するのではなく、大陸棚外縁と人類共通の財産である深海底との関係にも考慮してほしい」と中国外交部 副部長が発言するなど、遠まわしに中国の利益を主張しているという。
いずれにせよ北極海域での資源開発は一国だけでは不可能で、北極海資源の多くに主権的権利を有するロシアは採掘技術が低く、資金も不足している。そのため資金を提供できる中国、技術を提供できる西欧やブラジルによる共同開発が考えられるというのが秋元氏の見方だ。
◆国境を共同管理し新しい文化圏を
石油や鉱物資源をめぐる争奪戦に対して日本はどう対処したらよいのだろうか。この問題についても太田さんは「従来の国境 という概念にとらわれずに共同管理しながら新しい文化圏を築くという発想の転換が必要ではないだろうか」とユニークな問題提起をしている。私も同感なの で、大田さんの主張を紹介して、このシリーズを終わりにしたい。
太田さんはニュースレター21号(2001年6月20日)に「これからの『国境』を考える」というタイトルで問題提起をしている。
2001年と言えば日本の北方四島の返還問題に焦点が当たっているときだ。日露の科学者たちが北方四島共同決議書を出し たことに刺激された太田さんは「私は石と対話して世事に疎い一地質学者ですが、その決議書を見て、これまでほぼ30年間、ロシアの研究者たちと一緒に仕事 をしてきた中で感じたことを述べさせていただきます」と前置きした後、独自の持論を展開している。
◆環境汚染は国境を越えて世界中に
「今日の環境汚染は、人間がつくった国境をビザなしで越えて世界中に拡がるのに、研究者たちはいつも国籍や国境に阻ま れ、ビザや就労許可の取得に苦労しています。私の住んでいるノルウェーも、北極圏のパレンツ海で領海並びに排他経済水域(EZZ)の境界線についてロシア と対立し、長い間未解決の状態が続き、日本の北方四島と似た問題を抱えていますが、海底石油、ガス開発や漁業資源に関する調査、コラ半島の化学汚染、ノ ヴァヤ・ゼムリアの核実験場やこの島の周りの海放棄された10数個の原子力エンジンによる放射線汚染の可能性などについて、両国の研究者による共同研究は 着々と進んでいます」太田さんは政治的に対立する問題があっても、環境汚染など緊急を要する調査、研究には科学者たちは協力して対処しているのが現実だと 訴えているのだ。
北極点を取り囲む国々
=「浅川嘉富の北緯90度北極に立つ」から転載
◆新しい発想の転換が必要
「日本にとって、北方四島の問題が、国民的悲願であることは承知しているつもりですが、私は未来の国や国境の在り方につ いての夢を持っています。現在の国境とは、国家という政治・経済・軍事力などの権力の境界ですが、このような国家の在り方は、新千年紀の間に乗り越えられ て消滅し、それに替わって、それぞれの土地の風土や歴史の中で築かれてきた文化圏としての国になってほしいと思っています。政治がこのように変わるには数 百年もかかるでしょうが、その方向への変化は無意識的に既に進んでおります。ノルウェーでは1925年に発効した北極圏のスヴァ―ルバル条約で、この群島 を法的にはノルウェーの管理下に置くが、経済活動は署名国のすべてに平等に与えられるという、従来の領土概念とは異なった考えが導入されました。反対側の 南極では、領土権がすべて凍結され、環境研究や観光が共同合意の上で行われています」
太田さんは国家という従来の枠組みを越えたところで、人間は問題解決を図る時期にきているのではないかと訴えているのだ。日本はロシアとは北方4島の領土問題、韓国とは竹島の領土問題で対立しているが、こうした新しい発想の転換も必要ではないだろうか。
◆共同管理の国境帯を
「ロシアと日本やノルウェーの未解決の国境問題を、このような未来への展望の中で考えてみると、これらを従来の国境の概 念の中で解決しないで、未解決であることを利用して、両国共同管理の『国境帯』とし、この地域を関連国が共同運営して、その中で新しい共同活用の仕方を学 ぶ訓練の場とし、やがてはすべての国の境界が共同経営帯となり、人々が混じり住んで、さらにこれらの帯が広がって古い形の国家を包み込んでしまう。そし て、古い権力国家(STATE)が消滅し、新しい民族文化圏に基づく国(COUNTRY)が形成されていく、と考えるのもひとつの方向であろうかと私は考 えます」
35年前に南極・マクマード基地で出会ったとき、こんな話を太田さんは私にしてくれなかった。私と別れた後の35年という長い年月の中で出会ったさまざまな人たちとの交流のなかで、こうした発想ができあがってきたに違いない。
◆人間の争いは短期的で惨めで哀れ
「今始まったこれからの千年紀の間に、人間たちが内輪もめを止める、という程度の知性や英知がなければ、人類という生物 種の未来には絶滅しかない、と私は考えます。現実離れした夢のような話を書きましたが、私のように30億年にわたる地球の歴史とその上での生命の変移を勉 強している者にとっては、人間たちの争いはあまりにも短期的で惨めで哀れです。ある俳句集に、『国境を知らぬ草の実こぼれ合い』(井上信子)という句があ りました。私たちはこのような小さな草花からも何かを学び取る英知を持ちたいものです」
この一文は太田さんが9年前に書いたものだが、その発想と見方、視点は現在でも通用する。アメリカの金融危機に始まる世 界的な経済不況の中で、出口が見つからない今日の事態は、第二次大戦直前に大不況にあえぐドイツで、ヒトラーが台頭してきた状況と酷似しているような気が してならない。そんなときだからこそ、人間の理性と英知を研ぎ澄まし、賢明な判断をすることを求めている太田さんの訴えには敬意を表したい。
◆不思議なご縁に感謝
16回の「新しい南極」の復刻版+追想は、これで終わりである。特に追想は最初から何を書くかは考えておらず、行き当た りばったりだった。しかし振り返ってみると、偶然が重なって、とにかく16回を転がすことができた。南極でお世話になった太田さんの力を今度も借りること で最後を結ぶことになるとは夢にも想像していなかった。太田さんに改めて感謝、同時に不思議なご縁を感じている。
なお「新しい南極」の連載をする前に、1975年の新年特別号のために書いた「神秘の南極大陸に挑む」は、番外編として8月29日に掲載したい。
(横川 和夫 2010年8月15日)
連載ルポ「新しい南極」(番外編)
−1975年共同通信加盟紙掲載元旦用原稿の復刻―
新潟日報
信濃毎日新聞
南極ドライバレー概念図
神秘の南極・露岩地帯をゆく
死の谷に息づく氷河の溶け水
カミソリで深く切り落としたように鋭くのめり込む尾根。深い谷底は100万年以上も昔、氷河が運んだモレーン(堆積岩)で埋め尽くされている。
周囲は白一色の世界なのに、南極横断山脈の中心部にあるここドライバレーは、地球の地層を不気味にのぞかせた『死の谷』である。
南極マクマード基地(米国)からヘリコプターで30分。眼下に広がるロス氷棚の大氷原はアッという間に消え去り、乾燥 と酷寒のドライバレーが視界いっぱいに飛び込んできた。広さは東京都のざっと2倍だという。中央にどっしりと構えているのが、標高2000メートルのアズ ガード山脈。そしてこれをはさむように西からビクトリア谷、ライト谷、テイラー谷と3つの大きな谷。みな700メートルから1500メートルも深く落ち込 んでいる。
薄茶色、チョコレートブラック、黒褐色…と岩層の色彩は強烈で多彩だ。黒褐色の尾根の切れ目から白い舌をのぞかせている氷河
尾根の切れ目から白い舌をのぞかせる氷河
ちょうど溶かした粉砂糖がケーキの縁からとろけ落ちるように、その先端は丸く、太陽の光を浴びて生きもののように輝いている。口を開けているクレバスは象の足のしわのようだ。定規で線を引いたように、水平線に平行な地層が浮き彫りになっているのはビーコン累層群だ。
テーラー氷河の先は凍りついたフリクセル湖
この地に、現代の物指しは通用しない。氷河でさえ、まだ地球上に人類が登場していない数百万年前から生きている。ビーコン累層群をはじめドライバレー一帯の山塊はすべて、気の遠くなるような何憶万年も昔の恐竜時代には既に形成されていたのだ。
テイラー氷河の奥は水平線に平行な
ビーコン累層群の地層が浮き彫りになっている
背後を振り返る。雄大なロス島の活火山エレバス山頂から、濃い青空に白煙が舞っている。
「ヘーイ」。鼓膜が破れそうにうなりを上げるエンジン音のなかで、19歳だという若い米海軍の操縦士が親指を下に向け「見ろ」と合図した。
砂漠か。違う。モレーン地帯だ。薄茶色のモレーンの先端がロス氷棚にぶつかったところに、黄色い板で囲まれたボーリング機械収納小屋。そして草色のテントが豆粒のように10数個並んでいる。
ドライバレーの今期第1ボーリング現場。ニューハーバーに着いたのだ。水が極端に少なく乾燥度のきつい不毛の地。生物の生存にまったく適さないと聞かされた記者は、やがてそれを証明する『アザラシのミイラ』を点々と目撃する。
ドライバレーの今期第一ボーリング現場のあるニューハーバー
薄茶色のモレーンの先端がロス氷棚にぶつかったところに掘削現場があった
(南極・ニューハーバーにて横川和夫共同通信特派員)
◎溶け水が生命(いのち)の証言
実に寒い。フードを外していると耳が痛い。毛のシャツにセーター。そして羽毛服と完全装備だが、氷のような冷たい風が身体を吹き抜ける感じだ。
砂と岩と氷だけの世界。植物はわずかにコケだけ。それもどこにあるのか分からない。水もない。毎年12月末から1月初 めにかけて、100―200万年と年輪を刻む氷河の溶け水がチョロチョロとモレーンの間を流れるぐらい。これが唯一の自然の生命(いのち)の証言である。
このドライバレーで、地底深く穴を開け、取り出したコア(堆積物)、岩石、凍土などを分析し、南極大陸の歴史、生成の ナゾを解こうという試みが日本、米国、ニュージーランド3国の科学者たちの手で、いま行われている。数億年前の南極大陸の基盤を取り出すという壮大なプロ ジェクトだ。
◎地球の未来を予知するデータ収集
4年前から始まったドライバレーの掘削は1971年にロス島のハット岬で、600メートル深く掘り下げたのが最深ボーリング記録となっている。
今回は広大なドライバレーという地域の中でもニューハーバー、コモンウェルス氷河、フリクセル湖、ドンファン池を掘削地に選んで掘り、最後にマクマード基地内の地球化学研究室近くで2000メートル下の岩盤までボーリングする計画だ。
日本から京大工学部助手西山孝さん(35)、名大水圏科学研究所助手加藤喜久雄さん(35)の2人が参加、12月から国立極地研究所助教授神沼克伊さんら4人も加わる予定だ。
日本から京大工学部助手、西山孝さん(右)と
名大水圏科学研究所助手、加藤喜久雄さん(左)も参加した
「われわれの計画は地球に穴を開け、その中から堆積物や岩石、凍土、氷を取り出して分析し、ナゾの多い南極の歴史に光 を当てる。つまり5000万年昔までさかのぼって、昔の氷の盛衰、溶け具合、それによる海水の影響などを調べ、地球の未来を予知するデータをそろえようと いうのだ」
白い髪で顔が埋まったようなネブラスカ大学の火山学者であるトレバス教授は、こう説明すると愉快そうに大きく笑った。ドライバレーの現場責任者として一昨年度に引き続き訪れ、日本、ニュージーランド、米国の地質学者、氷山学者を指揮している。
◎5,6時間かけてやっと4メートル
太陽は沈まない。1日かかって、ゆっくりと上空を一周する。今回、一番目に手をつけたニューハーバーのボーリング現 場。といっても高さ10メートルの4本のやぐらに掘削機が備え付けられただけの小屋掛けだ。ニュージーランドからやってきた作業員がそれこそ3交代、徹夜 でフル回転している。
掘削機が取り付けられた掘削小屋では24時間フル回転
南極大陸の歴史をのぞく『窓』は掘削機の根元にあった。穴といっても鉄パイプが口を開けているだけだ。5、6時間かかって4、5メートル掘り下げてはパイプを引き出し、中に詰まっている堆積物や岩石はそのまま段ボールに収められ、マクマード基地の地球科学研究室へ。
◎泥の塊がタイムカプセル
直径4センチ程度の堆積物は鉛色だ。ネブラスカ大学院生、カルビン・バーネス君(22)は、パイプの中からこぼれ落ちた堆積物を拾い上げ、小さな拡大鏡を当ててのぞく。
ニュージーランドの作業員が三交代で白夜の徹夜作業
「ちょっと見てごらん。泥の中に小さな岩石の破片が混じっている。いま深さは180メートルだから、数千万年昔のものに違いない。これをフロリダ大学の氷点下20度の冷凍室で保存する。一部を分けてもらって、詳しく調べるのさ」
掘り出した堆積物は段ボールに入れられ研究室に
ためつすがめつしてみる。なるほど、黒鉛色なのだろうか。塊の中につめのあかほどの赤い岩片が浮いている。一見なんの変哲もない『泥の塊』が、地球の過去を記録している貴重なカプセルだ。
急激に発達した同位体による年代決定法など、現代科学の進歩はこの泥や岩石が何年前にできたものなのか、その当時の環境はどうだったのかをピタリと当てる。
◎エレバス火山の活動史に迫る
南極で数少ない火山のひとつ、エレバス山(3794メートル)=ロス島=が20年ぶりに灰を噴き上げている。毎日白煙をたなびかせている雄姿が、作業現場からもよく見える。11月9日朝、マクマード基地では灰色の煙を、同日夜は2分ごとに噴き出す白煙を観測した。
「膨大な予算をかけて、南極まではるばるとボーリングにくる理由は何か」―記者は質問を向けた。
「このエレバス火山にしても、活動史がわかっているのは1841年に溶岩の流下を観測した―ということだけなのだ。それ以前については全く記録がない。しかし、堆積物は忠実な証言をもたらすのだよ」―トレバス教授は言う。
「堆積物に含まれる火山岩の量や種類を調べるのだ。こうしてわれわれは何十万年も前のエレバス火山噴火活動に迫ること ができる。翻って、こうした調査を毎日、何百年と積み上げていけば、地震予知に貢献できる時代がくるに違いない」―トレバス教授はドライバレー掘削事業の 意義をこのように説明してくれた。
◎南極を人類の汚染から守る
ドライバレーのボーリングは環境保護の点でも世界の注目を集めている。南極では初めての試みとして、生物研究者による環境モニターを置き、環境汚染に厳しい監視の目を光らせている。
マクマード基地にある生物研究室の大型冷蔵庫は、ボーリング現場から採取したバクテリアの培養皿でびっしり満員。バージニア工科大学の若い大学院生たち3人がその環境モニター役で、仕事に情熱を燃やしている。その一人、ブイン・ハワード君(22)は語る。
「私たちの仕事は最後に人類に残された南極を人類の汚染から守ることだ。人類は無謀にもあらゆる大陸を汚染してきた。 南極には将来、石油、金など鉱物資源が発見されると、人間がわんさと集まって来るに相違ない。私たち人間がどのように細菌やバクテリアを持ち込み、そのバ クテリアはどのような条件で成長するかを調べ、できるだけ早いうちに南極の環境汚染防止手段を発見し、きれいなままで残したいのだ」
◎大便はビニールで包む
3人はボーリング作業をする度に開始前、作業中、作業後の3回、現場で空気と砂を採取してバクテリアの繁殖状況、二酸化炭素、二酸化窒素の増え具合を観察し続けている。
現場での生活も極めて厳格だ。小便や洗面後の水まですべてドラム缶にためる。大便はビニールで包む。食べ残しなど日常廃棄物と一緒に、ヘリコプターでマクマード基地に運ぶ。
処理上頭を痛めるのはボーリングに使うディーゼル油である。掘削ドリルの先端が焼き切れないようにディーゼル油を循環 させているのだが、小屋の周辺はどうしてもあふれ出た油で汚れる。溝を掘ると、砂の間からあめ色の油がにじみ出てくる。やっかいなシロモノだが、これを若 い環境モニターたちは暇さえあればゴム手袋をはめ、缶ですくい上げ、油で汚れた砂や泥をかき集めてドラム缶に入れている。丹念な、しかも労多い仕事に携わ る間、大陸から吹き下ろす氷風に彼らは全身をさらす。
◎ドライバレーを空から見る
「ドライバレーを空から案内しよう」―米国科学財団(NSF)マクマード基地分室の代表であるプリズナハム氏がニューハーバーにヘリコプターで記者を迎えに来てくれたついでに誘ってくれた。
雲ひとつない青空。ヘリコプターは一気に1000メートル近く上昇すると、進路を南東にとった。テイラー谷である。
はるか南に、4000メートルを誇るロイヤルソサエティー山脈の白い巨峰。
100万―300万年前の氷河期。人類の祖先が出現し始めたころ、このドライバレー一帯はまだ厚さ2,3000メートルの氷の下だった。それがゆっくりと後退し、その時何億トンもの重さの氷河が巨大な大陸を削り落していったのである。
スプーンできれいにえぐり取ったように、丸く削り落ちている谷。削り跡は千差万別だ。
氷河が岩石を引きずったときにできたのだろう。カメの甲のように中央部が膨れ上がり、地層の筋がその上をはっている谷底もある。
◎白骨同然のアザラシのミイラ
ヘリコプターはU字型に大きくえぐり取られ、南北に700―1000メートルにわたってそそり立つ絶壁の谷の上を飛ぶ。ドライバレーの谷底には大小合わせて10近くの池や湖がある。その一つ、ボニ―湖に降りる。気圧の関係で耳の中がキーンと鳴る。
東西7キロ、南北800メートルの細長いひょうたん型の湖。北側は高さ500メートルほどの黒褐色の絶壁がそそり立ち、いまにも倒れてきそう。
3年前から夏季だけ観測を続けている米国人の女性、シェリー・パトリスカさんが三角屋根の小屋から飛び出し、出迎えてくれた。小屋の前には白骨同然のアザラシのミイラが口を開けていた。
生物の生存に最も適していないドライバレーのボニ―湖には
アザラシのミイラが散乱していた。右がプリズナハム氏
ボニ―湖畔に建っていた小さな観測小屋
米国人女性、パトリスカさんが小屋の入口に立っていた
「平均湿度2−3パーセント。その上気温も低く、世界で生物の生存に最も適さない所がこのドライバレーです」とプリズナハム氏が説明した。
◎バンダ湖底の水温は25度
ボニ―湖をはじめ、ドライバレーの谷底の湖や池は塩分濃度が極めて高い。そして、その成分はみなバラバラだ。ライトバ レーのドンファン池は海水の11倍。氷点下20−30度の冬でも凍らない唯一の不凍湖である。諏訪湖の大きさほどもあるバンダ湖は3,4メートルの氷が張 り詰めていても、60メートル近く下の底部の水温はプラス25度という『お湯』の状態だ。
「湖や池が、どうして塩分濃度が高いのか、バンダ湖の水温がなぜ25度もあるのか、このナゾ解きにドライバレーのボーリングは役立っている」とプリズナハム氏。
◎1万年前はフィヨルド式の海岸
昨年5月、シアトルで開かれたセミナーでは、1万年前までこのあたり一帯はフィヨルド式の海岸だったと説明された。そ れが、氷河活動によって海と遮断されて孤立、残った海水は蒸発して塩となる。しかし、氷河の溶融で再びこれが溶け出して塩湖になる。こうした過程が何回か 繰り返された、との報告が提出されたという。
バンダ湖の『お湯』も、表面の氷がレンズの役目をし、太陽の輻射熱で湖水が温められる。しかし塩分濃度が高いため、この温水が循環せず、底部が25度に温められたままになっている、というのである。
そのバンダ湖は、氷が張って静かに眠り、周辺はコバルト色に輝いて、まるで別世界だ。わずか3時間の大峡谷の上の旅だったが、タイムカプセルの奥深く、何億年の昔に引き戻された錯覚に陥った。
◎迫られる新たな決断
日本の36倍というこの南極大陸で、天然ガスや鉱物資源が発見され、人類に「新たな決断」を迫っている。
一昨年、アメリカの深海底調査船グローマー・チャレンジャー号はロス海の大陸棚で天然ガスを、ソ連はプリンス・チャ―ルーズ山脈に沿った南極大陸東部で世界最大の埋蔵量と推定される大鉱脈を発見したと伝えられている。
アメリカは、白金、クローム、鉄などがひと塊りになって埋蔵されているとみられるペンサコラ山脈の塩基性層状岩体のボーリング調査を1年後に始める予定だ。
1961年、領土権主張を30年間凍結して南極の平和利用、科学調査を行うことを決めた南極条約は、こうした資源問題をどうするかは触れていない。
◎確立すべき資源の利用法
日本を含む南極条約加盟17カ国は、この資源問題をめぐって一昨年5月と昨年10月の2回、非公式会議や予備会議を開いたが、各国の思惑が絡み合い、結論が出なかった。
「南極条約のもとに20年以上各国が協力して、南極で何のトラブルもなく仕事をしてきたことは、これまで争いを続けて きた人類にとって素晴らしい偉業だと思う。だから、資源問題についても早く決めないとだめだ。政治家が乗り出したり、意見を出してくる前に、われわれ科学 者が南極条約の精神にのっとって、資源の利用方法を確立すべきだ」
マクマード基地の地球科学研究室で、トレバス教授はこう言って『科学者』という言葉に語気を強めるのだった。(了)
(文と写真 横川和夫共同通信特派員)
(1975年元旦記事として共同通信加盟紙に掲載された)
どんな戦争でも起こしてはならぬ
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
これは日本国憲法の国際紛争を解決する手段としての「戦争の放棄」を宣言した第9条である。
なぜ番外の追想で憲法9条をもちだしてきたかについて若干説明させていただきたい。
◆恐怖とひもじさの戦争体験
私自身は小学校2年生で敗戦を体験した。当時、札幌に住んでいた。札幌でも夜は灯火管制で黒い紙を窓に張り、空襲警戒警 報のサイレンが鳴ると電灯を消し、床の間に家族8人が身を寄せ、暗闇のなかで空襲の恐怖に怯えた。母は大事にしていた指輪など貴金属を供出させられ、タン スから着物や帯を出して、お米と交換していたのを、この眼で私は見ている。
東京大空襲のような大惨事は体験していないが、私にとっての戦争は、この暗闇の恐怖とひもじさだった。札幌でも食糧不足 からお米の配給は途絶え、替わりにサツマイモやカボチャを食べた。配給だけでは足りず、ほとんどの家が空き地にジャガイモやカボチャ、トウモロコシを自家 栽培し、ヤミ米がまばらにはいった芋粥をすすった。ほとんど毎日カボチャを食べ続けていたため、手の平は握って開くと真っ黄色となった。甘いものに飢えて いた。木の幹に傷を付け、針金で縛りつけた空き缶に樹液がたまると、焚火に入れて水分を蒸発させ、底にかすかにへばりついている茶色の液体をなめ、かすか に甘みを感じるのを楽しんだ。北海道だから東京などと比べると食糧事情は、まだましだったかもしれない。それでもお腹がすいた。学校からの帰りに空腹のた め目から星のようなものがチカチカ飛んで、友人の家の玄関先までふらふらになってたどり着き、水を飲んで一息ついた記憶がある。
◆正義の戦争も「ノ―」
そんな体験から、私にはどんな戦争であっても、たとえ正義のための戦争であっても「ノ―」だ、という信条が刻み込まれて いる。プレスリーの真似までしてジョンソン米大統領にすり寄り、イラクに自衛隊を派遣させられた小泉首相の愚挙を阻止できなかったものの、65年もの長い 間、日本が戦禍に巻き込まれることなくやってこれたのも、この憲法9条があったからこそ、だと思う。
35年前に書いた「新しい南極」、そして今回の番外編として掲載した「75年の新年原稿」を読み直し、改めて石油や鉱物 資源をめぐって人類は争奪戦を展開してきたことを考えると、世界的な大不況から脱出する出口が見つからない今、経済回復のために戦争という安易な手段を選 択してはならないと願うばかりだ。
◆植村直己も戦争の被害者
考えてみるとマッキンレーで消息を絶った植村直己も、戦争の被害者、犠牲者だ。
というのもアルゼンチンの陸海空軍の協力を取り付け、犬ソリ旅行による南極最高峰のヴィンソンマシフ(5140メート ル)の単独登頂を目指して南極半島にあるアルゼンチンのサンマルティン基地に滞在中、フォークランド紛争が起きて全てが御破算になってしまったからだ。も し成功していたら、次は犬ソリによる南極横断へと計画は進み、厳冬期のマッキンリーに挑戦しなくてもよかったに違いない。
その思いを強くしたのは、この植村直己の犬ぞりによるビンソンマシフ登頂をアルゼンチンで支援したのが上智大学山岳部の後輩である高山由比古君(69)であることが分かり、この8月に東京で彼に会って話を聞いたからだ。
◆大牧場主の夫人と知り合う
高山君は、学年で言えば1年後輩に当たる明治大学山岳部の植村直己とは、学生時代に日本山岳会学生部の交流合宿で知り合 い、明大の山小屋を利用したり、スキー合宿で一緒に過ごした仲だった。高山君は学生時代に上智大山岳部のペルー・アンデス遠征に参加した。その下調べに 行ったときにアルゼンチンの大牧場主、セリーナ・アラウス・デ・ピロバーノ夫人と知り合った。そして上智大を卒業後、アルゼンチンに渡り、セリーナ夫人の 家の近くに住んで電気器具の製造を始めた。
そのため海外での登頂を目指していた植村直己もアルゼンチンを訪れると高山君とともにセリーナ夫人の経営する大牧場に 行って、乗馬を楽しんだりする親しい関係になり、当時60代だったセリーナ夫人は植村直己を気にいり、大切にしてくれた。今年96歳となるセリーナ夫人の 居間には植村直己の写真が飾られている、という。
アルゼンチンの大牧場主、セリーナ夫人(右側の白髪まじりの女性)と
談笑する植村直己と高山由比古
セリ―ナ夫人の大牧場でバーベーキューを楽しむ植村直己
◆アルゼンチン軍が全面支援
セリーナ夫人の父親は大富豪で、アルゼンチンのリゾート地であるマル・デル・プラタを開発したアルゼンチンの7財閥の1 人。そのため陸海空軍のトップとは電話一つで話し合える関係にあり、植村直己の計画実現のためアルゼンチン側の窓口となったアルゼンチン南極研究所の顧問 で、退役陸軍大佐のバッカ氏もセリーナ夫人の紹介。セリーナ夫人のバックアップがあって、植村直己の南極単独犬そり旅行に対するアルゼンチン軍の全面協力 を得ることができたというのである。
3回も越冬経験がある退役陸軍大佐バッカ氏(左側)
◆毎日放送がスポンサー
犬ソリによるビンソンマシフ単独登頂は、毎日放送がスポンサーで、南極半島にあるアルゼンチン陸軍のサンマルティン基地 に1年間滞在し、その間、8月末から11月にかけて3ヶ月間の予定で、犬ソリ旅行と単独登頂を行う。アルゼンチン空軍は数回にわたって主に犬の食料などを 空輸・投下して支援する。毎日放送はディレクターとカメラマンの2人を基地に越冬させ、3回にわたって、その模様を放送する計画をたてた。
◆北極から16頭の犬を空輸
植村直己は海軍の砕氷船で南極入りする直前の2月末、グリーンランドに飛び、16頭の犬と犬ソリを仕入れてオランダ航空機でブエノスアイレス空港に戻って来た。
検疫所で暑さでばてる北極犬に肉の補給をする植村直己
「私は空港に迎えに行ったんですが、2月は真夏で、氷点下の北極から運ばれた犬たちは検疫所で37度もある暑さのためく たばっている。早く砕氷船の冷蔵庫に入れないと死んでしまう。ところが検疫官は検疫証明書がないと犬を出せないと言う。そこでバッカ氏に連絡して、軍用犬 として無検疫で通してもらいました。サンマルティン基地でも犬を飼っていたけれど劣勢遺伝の影響が深刻だった。そこへ北極から犬がきたというので基地では 大喜びでした」と高山君は当時を振り返る。
サンマルティン基地で出動を待つ16頭の北極犬
サンマルティン基地入りした植村直己
◆領有権をめぐって対立、戦争に
高山君は植村直己とともに海軍の砕氷艦に乗り、サンマルティン基地まで行き、アルゼンチンに戻って間もなく戦争が勃発した。きっかけはフォークランド諸島の領有権をめぐる英国とアルゼンチンの対立である。
アルゼンチン海軍の砕氷艦でサンマルティン基地についた植村直己
フォークランドは南アメリカの最南端、ホーン岬の北東770キロメートルの大西洋上にある2つの主島と大小200以上の島々からなる諸島。寒冷多雨で農業は牧羊が中心。
人口は約3000人で、島の領有をめぐって4、500年前からフランス、スぺイン、アメリカ、英国などが争っていたが、 最終的にはアルゼンチンと英国が領有権を主張して対立。第二次大戦後はアルゼンチンが島民に対し医療サービスなどをしながら英国に返還を求め続けてきた。 英国も一時はフォークランド諸島は利用価値がないとして条件付きながら返還を認める姿勢を示していた。
◆国民の不満をそらすために戦争
ところがアルゼンチンは次々に交代する軍事政権で政治、経済が混乱し、超インフレで国民の不満が高まる。1981年に大 統領に就任した陸軍司令官のガルチェリは、フォークランド領有問題をあおることで国民の不満をそらそうとした。一方の英国も、超タカ派であるサッチャー首 相が同じ1981年に就任、それまでの条件付委譲を撤回してしまう。
結果は追い詰められたガルチェリ政権が1982年3月に英国に最後通牒を突きつけ、4月2日にフォークランドに侵攻、占 領してしまう。これに対し英国も原子力潜水艦をはじめ最新鋭戦闘機を投入、両軍とも数百人の死傷者を出し、結果的に6月14日にアルゼンチンが降伏して 2ヶ月半で戦争は終わった。
◆涙をのんで旅行を断念
大損害を出したアルゼンチン軍にとって犬ソリによる植村直己の南極旅行を支援する余裕などなかった。結局、空軍による空 からの犬の食料投下などの目途がたたず、植村直己は涙をのんで旅行を断念した。どんなに悔しかっただろう。真面目な彼だけに、経済的な負担だけでなく、支 援してくれた人たちに対する「借り」をどうしたら返済できるのかで重圧を感じていたに違いない。
英国とアルゼンチン両国は89年10月に敵対関係の終結を宣言、90年2月には国交を回復、2001年8月には英国のブレア首相がアルゼンチンを訪問しているが、最近、フォークランド周辺で石油が埋蔵されていることがわかり、再び緊張関係にあるという。
◆日本も領有権問題抱える
日本も領有権問題では北方四島でロシアと、尖閣列島では中国と、竹島問題では韓国とで対立している。フォークランド紛争 を例にとると、国内の政治・経済政策が行き詰まって国民が閉塞状況に置かれたときに、その不満のはけ口を領土問題に向ける可能性がないとは断言できない状 況にある。小泉元首相が内閣支持率回復のため北朝鮮の電撃訪問を仕掛けたように、日本の政治家は個人的な利益、名誉、地位を維持するために何をやるか分か らない存在だと理解しておいた方が間違いない。
◆批判精神を喪失したメディア
そうした政治家、権力に対して番犬の役割を果たさなければならないメディア、特に新聞は、残念ながら骨抜きになってい て、批判精神を喪失しているのが現実である。朝日、毎日、読売新聞も、しょせん、大阪で発祥した商業紙であり、大衆迎合の素地のうえに成り立っている。イ ンターネットが普及する大競争時代のなかで、発行部数を維持し、収益を上げるためには、時の権力に迎合しかねない体質であることは過去の歴史が物語ってお り、このことを頭に入れて読むことが必要な時代になってきたような気がしてならない。
だからこそ私たちは常日頃から耳を澄まし、英知を研ぎ、感性を磨いて、メディアに踊らされることなく、自分独自の視点をもって、ことに対処し、いかなる戦争であっても認めない、許さない心構えを持つことが今こそ求められていると思う。
(横川 和夫 2010年8月29日)