氷床の流れを調べる測量旅行記

成瀬 廉二

1.南極の氷は増えているか、減っているか?

  

  日本が南極観測を開始した1956年前後の頃、南極の氷に関する最も重要と考えられていた課題は 「南極の氷は増えているか、減っているか?」ということであった。実は、南極の知見が何十倍から 何百倍も増え、観測技術が格段に進歩した半世紀後の今日においても、この御旗は色あせることもな く、将来の地球温暖化−海面上昇との関連において、解明すべき喫緊の研究課題に位置づけられている。  

 氷床は、その上に雪が積もって養われ、氷が流れ氷床の端が割れて氷山が生産されることにより 消耗する(これを氷床の水収支、または質量収支という)。したがって、氷床の拡大または縮小を調べる ためには、氷床への収入としての降雪量分布、支出としての氷床流動速度分布を測定することが必要で ある。この「氷の流れ」を調べることが、本測量旅行の目的である。

2.ポスト極点旅行の内陸調査計画

  私が北海道大学を退職して郷里の鳥取に転居する直前の2006年3月、毎日の主要な仕事は、研究室の 書棚、物入れ、ダンボール箱の中に保管されていた過去40年程の諸々の書籍、報告書、文書、資料、書簡、 データ、図表、野帳、地図、写真、フィルム、テープ等々を、「破棄」と「保存」に仕分けるという

 一見単純ではあるが神経と労力を要する作業であった。その折、破棄を免れた文書 の中に、手書きで変色した青焼きコピーの計画書があった。 その表紙を図1に示すが、タイトルには「エンダービーランド地域雪氷学的長期調査計画」、 日付は1968年1月となっていた。


図1

   図1.エンダービーランド計画書の表紙

 日本南極観測隊の内陸活動は、第9次隊の極点旅行までは広域の探検的調査であったが、ポスト極点は 雪氷学的精査が期待され、それにしたがって立案された内陸調査計画であった。 エンダービーランドとは、 昭和基地から極点に向かうルートの東側に広がる

 地域を指す。本計画は、エンダービーランドおよびその周辺(やまと山脈を含む)地域において、 基盤地形、水収支、気候的調査研究を行う、というものであった。 期間は、10次隊(1969年)を初年度とし、15次隊で完結させる6年計画とした。

3. 氷床の流動をどうやって測るか

  計画を立案した雪氷研究者グループおよび10次隊の内陸調査メンバーの中には、南極氷床はもとより 山岳氷河の精密流動測定の経験者は一人もいなかった。さらに測量については、みなポケットコンパスと 巻尺による簡易測量程度しか経験のない素人であった。 そのため、私たち10次隊の内陸調査メンバーの 5名(安藤久男、吉田勝、小元久仁夫、成瀬廉二、上田豊)は、国内の準備段階にて数日間の合宿を行い、 国土地理院の専門家(増田実ほか)から講義を受け、測量(角度、距離、天測)の実習を行った。この 講習と打ち合わせの過程で私たちが採用することにした測量方法は、三角形が鎖のように横に長く連なる 三角鎖測量である。この測量の利点は、三角形一つずつ内角の和が180度から

 許容値を超えてずれた場合は、その三角形の測量をやり直すことができることである。 さらに、このようにして三角形を1個ずつ増やして行き、約20個毎に1つの辺の長さを精密(電波)測距儀 にて測定し、三角測量のデータから計算により求められた距離の正確さをチェックできる。また、太陽 方位角観測により辺の方位の大きな誤差累積を未然に防ぐことを目指した。 採用した測量法は、国土 地理院の四等三角測量に従うが、我々の技量を考慮して観測の制限をやや緩めたものにした。使用した 測器は、角度測定には世界的に普及し信頼度の高いウィルドT2 経緯儀、距離測定には現代の光波測距儀に 比べると格段に取り扱いが煩雑な電波測距儀(エレクトロテープ)であった。


4.難航した三角鎖設置の測量

  1969年11月24日、10次隊内陸旅行パーティー(安藤リーダー:全10名)は、極点ルート上の南緯72度 からやまと山脈へ向って三角鎖測量を開始した。雪上車は4台、人員の配置は次の通りであった。KD605号 車(安藤*、吉田*、前田祐司#、木村征男:写真1)、KD606(小元*、石渡真平#)、KC14(上田*、 八木実#)、KC15(成瀬*、吉川暢一#:写真2)。*印が測量担当、#印がドライバー兼測量アシ スタントであった。
   測量以外に、小元がアイスレーダによる氷厚観測、吉田がラコステ重力計の測定を行った。この4台の 雪上車がお互いに見通せる位置(2〜5キロメートル程度)を保ちつつ、菱形のような陣形で移動した。 3つのグループが三角形の各点にて測量をしている間に、残りの1グループが次の新たな測点に移動する。 各測点にて必要な観測が終わるとトランシーバーにて安藤リーダーへ連絡する。一つの三角形の内角の和が 180度±20秒以内に収まっていることを確認したら、安藤が1つのグループに「移動して良し」と通報する。



Photo1

 写真1.旅行準備中、昭和基地付近の
   海氷上の軟雪に埋まったKD605号雪上車.

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    写真2.KC雪上車の天蓋からルートを探す吉川.


Photo3

 写真3.ブリザードの地吹雪に埋まった燃料(ガソリン)そり.
   写真左は吉田、右は上田.右奥はKC15雪上車.
     左遠方の幌付そりは、吉川作成の移動式簡易トイレ.

   この測量作業の経過は、10次隊が越冬を通して休みなく365号まで発行したガリ版刷り日刊ミニ新聞「S10 トピックス」に、何回か掲載された。そこには、当時の関係者(私)による現場からの生のレポートを 見ることができる(以下、抜粋)。
   『1969年12月7日(成瀬特派員発):南緯72度線を"やまと山脈"に向けて出発してから10日経った。 歩みは牛の如く、かせいだ距離は約100キロメートル。初めの一週間はすべての点がうまく行かなかった。 この付近は予想以上に起伏が多い。見通し距離が1キロメートル以下のこともあり、そんな場合 は一日に数キロメートルしか進めない。また測量器具が寒さのため調子が悪くなったりする。しかし、 11月下旬から天候が安定してきたことも幸い

 して徐々に調子にのってきた。この測量を続けて "やまと山脈"へぶつける計画に一時は赤信号がでかけたが、今は何とかメドがついた。地吹雪が比較的 強い午前中を避けて13時出発、24時頃キャンプ地到着という行動が続いている。』(写真3
   測量器具が故障したら、素人には修理できないので致命傷である。不調の機器をストーブで暖め、 乾燥させると回復した。『12月18日:ついにやまと山脈が見えた。基地を出てから47日ぶりにして とうとうやまと山脈のすぐ近くまで来た。ルートマップによれば直線距離にして山脈まであと40キロ メートルほどである。山脈に近づいてから急にクレバスが多くなってきた。』


5.やまと山脈が測量のゴール

Photo4 
  写真4. やまと山脈南部の露岩上の基準点(測点1か2)における角度測定.
頂部に赤い円筒が付いた大きな三脚は、他の測点から測量するとき視準するため
の目標で,その円筒中心の鉛直直下に測量器を設置する.測量者の後においてあ
る機器はエレクトロテープ. 写真奥の露岩がもう一つの基準点(測点2か測点1).

  三角鎖測量は、最初か最後に、山脈の露岩上の不動点に連結させる必要がある。もし日程不足により 三角鎖の端が山脈まで到達できないと、氷床の流動速度が得られず、それまでの苦労が水泡に近くなって しまう。『12月25日:やまと山脈のほぼ全容が目の前に見えている。最初にとりつく予定のA群まであとほ ぼ10キロメートル。話に聞いていた通りクレバスが非常に多い。十メートル以上のクレバスにもしばしば 出会って迂回した。

 クリスマス頃にはやまと山脈へつけるのだろうとの予想に反して、1〜2日遅れることとなった。山脈を 目前にしてホワイトアウトと地吹雪に見舞われ、今日は連続4日目の停滞日。』 12月31日、風がやや穏やか となり、A群の露岩上に基準点(写真4)を設置することができ、ついに三角鎖測量は完結した。 東西総距離 240 km、三角形の数162個に及んだ(図2)。


図2

図2.三角鎖の配置図.
 測点1と2がやまと山脈南部の露岩に設置された基準点.
実際の測量作業は、測点164、163から 番号が若い方向に進む.
測点1から13の間は、三角形の配置が複雑になっているが、
これは地形の 激しい凹凸とクレバスの分布のためである.

  測量後、やまと山脈のベースキャンプに集う旅行メンバーを写真5に示す。数年後、この 三角鎖を同様な方法で再測量を行えば、その間の氷床流動速度分布が求められる。そして実際に、 1973年12月20日から翌

1月16日にかけて第14次隊により測量がほぼ完璧に成功し、白瀬氷河流域氷床の動的状態に関する詳細な 知見が得られたのである。これについては、別の機会に述べよう。



写真5.やまと山脈D群福島岳ふもとのベースキャンプ(1970年正月).
     前列左から安藤、石渡、八木、上田、吉田、
     後列左から前田、小元、吉川、成瀬.撮影は木村カメラマン.

(2006.6 作成の原稿を下地に、2009.4 加筆 改稿)
    [筆者]当時 北海道大学低温科学研究所
        現在 (NPO法人)氷河・雪氷圏環境研究舎
     URL: http://www.npo-glacier.net/